仮初のつがい鳥 |
8−4 |
どれほど時間がたったのだろうか。いや、それともわずかな時も流れていないのかもしれない。おもむろに稔は起き上がり、室内を一望した。 まだ陽は落ちておらず、カーテンのすき間からのぞく光は、まだ明るい。 稔はベッドから立ち上がると、部屋を出て、キッチンで水を一杯あおった。清涼な喉越しが体の熱を奪っていく気がする。もやもやとした胸のつかえを洗い流してくれるようだった。 「ぐう」 突然、静かな室内に似つかわしくない、下品な腹の虫が鳴いた。 稔は腹の虫を抑えこむように腹部をつかむ。しかし彼女の体の中では、生理的欲求が暴れており、それが更なる音を響かせていた。 甲子郎のせいで昼食を食いはぐれたのだ。腹が減るのも無理はない。 「茶腹も一時」 茶ではなく真水であるが、稔は一人ごち、眉根を寄せながらもういっぱい水をあおる。まやかしの質量に、胃袋は仮初めの満足をみせた。そのまま冷蔵庫をのぞいたが、旅行から帰ってきて一度も買出しに行っていないのだから、何も入っていない。 稔は諦めの溜息をつくと、キッチンを出てリビングのソファへ力なく身を横たえた。 水腹でごまかした胃袋が早々に見破られ、食べ物を要求しだす。 「おなかすいた……」 呟いてみた所で目の前にメロンが現れるでもなし、甲子郎と別れた時間まで時がさかのぼる訳でもなし。せん無いことではあるけれど、呟かずにはおれない欲求であることもまた事実。子どもの頃に歌った歌が、真実であると証明する日がこようとは、幼い日の稔に予想つくはずもない。 「おなかとせなかがくっつくぞ……」 洒落にならない空腹だった。 ゆらゆらと揺れる意識の中で稔は子どもの頃の夢をみていた。誰かに頭を撫でられている。その手は大きく、温かく、とても安心するものだった。 その『誰か』は、いつも兄の傍らで微笑みかけてくれた人で、色が白くきれいな男の人だ。 稔は彼が大好きだった。彼も稔のことを、とてもよく可愛がってくれた。 「稔さん」 そうやって優しい声音で名前を呼ばれると、幼いながらに頬が熱くなるような、胸の高鳴るような感覚を抱かせた。 足もとの不安定な夢の中、栗色の髪がさらりと揺れる様が視界に入った。思い描いたとおりの端整な顔が、こちらを見つめていて、薄い色合いの虹彩が間近にあった。 きれいな色をした瞳は稔の気に入りで、彼が笑うと色が更にやわらぐのだ。 稔は自分の口元が緩むのを自覚していた。 「こーちゃん」 大好きな彼の呼び名を呟くと、いつも柔らかく微笑んで返事をしてくれるのだが、この時は一瞬だけ目を見開いて、そのあとにいつも通りの表情に戻った。 彼の指が稔の頬をくすぐる。肩をすくめて、その緩い刺激を享受した。 優しい彼の仕草に心の底から安堵する。同時に、忘れていた欲求が、ふたたび体の底からよみがえってくるのを感じていた。 まばたきの瞬間に、彼の薄茶の瞳が近づいてくる。 しかし、いま彼女が一番にとらわれているのは、他の何でもない原始的な欲求だ。 そして、目の前の彼はその欲求を満たしてくれるであろう人物だった。 よって、稔はろれつの回らない口で訴える。 「こーちゃん……、ごはん……」 「ぐぎゅうううう」 見計らったように、稔の腹から豪快に、空腹の地響きが轟いた。 そのあとを、一拍の静寂が流れ、堰を切った笑い声が室内に反響する。 突然の大声に、一瞬にして目を覚まさせられた稔は、腹を抱えてうずくまる甲子郎の姿を、ソファのすぐ下で見つけたのだった。 |
BACK * TOP * NEXT |