仮初のつがい鳥
8−3
 ああそうか、と稔は理解する。察するに、甲子郎は稔と結婚したことを隠したいのだ。
 理由は至極簡単だ。年が離れすぎている。稔や甲子郎が身をおく世界では、さほど珍しくないような夫婦像であっても、世間一般では違う。
 稔は自分の常識と世間の常識とのずれを正確に把握していた。それは甲子郎も然り。むしろ彼のほうが、社会人であるぶん稔よりも常に念頭にあるだろう。
 立派な成人男性である甲子郎の結婚相手に、十六歳は若すぎるのだ。
 高校生は結婚するには子どもだ。たとえ法律で認められていようが、一般的な結婚適齢期は成人してからである。
 二十八の男が十六の女の子と一緒にいるだけでも、職務質問を受けそうなご時勢なのだ。彼が周囲の反応に慎重になることは稔にも理解できる。
 理解はできるが、心に降り積もるもやもやした憤りをどうすることもできない。
 稔は眉間に一本、日本海溝よりも深いしわを刻んで、腕を振り上げる。てのひらを思い切り広げると、甲子郎の広い背中へ打ち込んだ。
「いっっ」
 声にならない呻きがこぼれて、甲子郎が身を屈める。彼に遮られていた視界がひらけて、向こう側に立っていた件の赤穂と若松の、驚いた顔が見えた。
「忘れ物も届けましたし、私はもう帰りますね。お、に、い、さ、ん」
 底冷えする声音で稔は甲子郎を見下すと、踵を返して駅へと向かった。嫌味な言い方では会ったが、わざわざ話を合わせてあげたのだから、稔は自分の「良妻」ぶりに満足であった。

「稔さん!!」
 改札を通る直前で右腕をつかまれ、稔の眉間にふたたび深いたてじわができる。振り返ると、これもまた眉間にしわを作った甲子郎が、稔の腕をつかんでいた。
「まだ背中が痛いんだけど」
 彼の言葉に、文句を言いにきただけなのかと、さらに腹が立った稔は空いた手で、自分の腕をつかむ甲子郎の手を叩き落した。
 甲子郎はじんと痛む手首をさすり、呆然と稔を見下ろす。常にない稔の怒った様子に、戸惑いを感じているのだろう。
「昼食は……?」
 餌付けに打って出たようだ。
 手のつけられない野生動物の扱いに、稔は甲子郎をにらみ上げながらも、冷ややかな表情に徹した。
「朝食が遅かったもので、空腹は感じていません。それでは」
 取り付く島もないとはこのことか。稔は彼の返答も待たずに身をひるがえすと、さっさと改札をくぐってしまった。一度も振り返ることなく、一直線に来た道を帰った。

 足音高くマンションのエントランスをくぐり、エレベーターに乗り込む。力任せに押したボタンはぱちんと激しい音が鳴った。
 靴を乱暴に脱いで、荷物もその辺に放り投げ、寝室の扉を力まかせに開き、ベッドへ身を投げた。こぶしを何度も打ちつけても、弾力のあるマットレスはしなやかに衝撃を吸収してしまう。
「ああ、もう!」
 ひとしきりベッドに八つ当たりすると息が切れていた。
 稔はそのままベッドへ横になり、天井を眺める。誰もいない家は、稔が音を発さない限りしんと静まり返り、物音一つしない。
 遠くで子どものはしゃぐ声がする。マンションの住人が公園で遊んでいるのだろう。小鳥の鳴き声や、道路を行く車のエンジン音も、窓をへだてて聞こえてくる。
 カーテンのすき間から西日が差し込む。太陽が傾いてきたのだ。
 日差しを避けるように、稔は腕で視界を遮った。目を閉じれば暗闇が支配する。自分の耳に届くのは、己の呼気と脈動。
「どうしてこんなに嫌な気分なんだろう……」
 しだいに遠ざかる意識の中で呟いた言葉は、誰にも届かない。

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