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仮初のつがい鳥
8−5
 肩を震わせ、なかなか笑いをおさめることができない甲子郎を、稔は目を見開いて凝視した。
 何がどうして、彼が爆笑するに至ったのか、原因であるはずの彼女は、全くもって分かっていない。それもそのはず、彼女は今しがた呟いた寝言も、今までみていた夢の内容も、一つとして憶えていないのだから。
 しかし、現状から考えて、笑われているのは稔の何がしかであろう。それは彼女にもわかる範囲であった。
「甲子郎さん?」
 状況説明を求めるために彼を呼んでも、甲子郎は手を上げ、「ちょっと待って」と合図を送るだけで、その口からはいまだ笑いの残滓が漏れている。
 これだけ大笑いする甲子郎は珍しいのだが、いかんせん笑いの種は稔自身なのだ。徐々に悔しいような恥ずかしいような憤りが湧いてくる。
 そして思い出す、昼間の出来事。
 胸のもやもやがよみがえり、怒りのボルテージは急上昇。
 もはや話すことなどないとばかりに、稔はソファの上で立ち上がり、その場を離れようと足を踏み出した。ソファの弾力に足場は不安定だったが、歩けないことはない。一気に走って、寝室に飛び込んで鍵をかけてしまえば、甲子郎とて手出しできまい。
 とにかく、彼と話をしたくなかった。妹だと勘違いされて、否定しなかった理由を聞くのは嫌だったし、それについて彼女が腹を立てることも、突き詰めて考えてはいけないような気がした。
 それなのに、彼女の足は、一歩も踏み出さない内から、甲子郎の手に捕らわれていた。自分の右足首に絡められた彼の指を、忌々しげに見下ろして、稔は溜息を一つ吐き出す。
「その笑いを今すぐおさめなければ、この腕を踏みます」
 稔が言葉の通りに、左足をあげると、脅しではないと気付いた甲子郎は、目を丸くして笑いを引っ込めた。しかし、つかんだ彼女の足はしっかり放す気配もない。
 稔は観念して、溜息をもう一つ吐いた。

 稔が観念してソファに座りなおすと、甲子郎は素直に彼女の足首から手を離した。稔はできるだけ尊大に、横柄に、脚を組んで腕を組み、そして彼を見下ろす。
「とびきり美味しい夕食を要求します」
 稔はそう言って口をつぐんだ。彼女の腹の虫は、今も絶賛活動中である。
「お口に合うか、わかりませんが」
 甲子郎は、笑いを噛み殺し、答える。そして、立ち上がってキッチンの方へ消えていった。
 間もなく聞こえる物音に、稔が興味をひかれて見にきてみれば、予想通りの料理する甲子郎の後ろ姿。
 どこで仕入れてきたのか、シンクには数種の食材。
 そういえば、長いあいだ、この人は自炊していたのだったかと、小気味よいまな板の音を聞いて稔は思った。
「手伝ってはくれないのかな?」
 不意に掛けられた声に、稔は焦点を甲子郎に合わせた。彼は自分の手元に視線を向けたまま、手際よく食材を切っている。
 あっという間に準備されていく様子は、手伝いなど必要ないように見受けられる。そもそも、稔には手伝いを渋る理由がある。唇をすぼめて呟いた。
「……私、お料理したことないもの」
 料理、というものに彼女はとんと縁がない。実家では専属料理人がいたので、手伝いすら不要である。学校の調理実習は一年に一度で、彼女がぼんやりしているあいだに、料理の得意な生徒が全工程を終わらせてしまっていた。
 だからか、料理ができないことに対して、稔はそれなりにコンプレックスを抱いている。
「それなら余計に手伝ってほしいね」
 甲子郎はかたわらに転がる野菜を指差した。

「こうやって、葉をちぎって、洗って、ボールに入れる。はい」
 甲子郎が手本を示し、稔は言われたとおりに手伝いを開始した。ただでさえ慣れない作業に、見られている気恥ずかしさも加わって、もたもたとした手つきだったが、彼は気長に彼女の「手伝い」を監督していた。
「次は、これでこうやってスライス。ここ刃物だから、気をつけて。指切らないようにね。それで、終わったらボールの中身と混ぜる」
 彼は稔の作業を見守りながら、コンロにかけてある鍋の中身を確認し、ふたたび包丁を滑らせる。
「ああ、もうそのへんで止めていいよ。そんなに小さいのスライスしたら指も切ってしまう」
 小さくなったセロリのかけらを、稔の手から取り出し、甲子郎は持っていた包丁で細かく刻み、ボールの中に入れる。
 そういえば、よく気の利く男だったのだと、稔は彼の手先を眺めながら改めて思った。
「あとはトマトの皮をむいてもらおう」
 そう言って彼の手が差し出してきたのは、真っ赤に熟れたトマト。
 陽の光をたっぷり浴びて、熟しきったそれは、そのまま食べても美味しそうだった。
 彼の指示したとおり、フォークに突き刺したトマトを、コンロで恐る恐る炙る。それを用意しておいた氷水にひたすと、面白いくらいきれいに皮がめくれたのだ。
 稔は夢中になって皮をめくり、甲子郎に渡した。彼は稔の手の中のトマトを受け取ると、彼女に微笑みかけた。
「面白いだろう?」
 今までの憤慨も忘れて、稔も彼に向かって顔を綻ばせた。

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