仮初のつがい鳥
8−1
 稔は改札を出ると、駅の出入り口付近にたたずんだ。屋根を支える柱にもたれて、人の往来を眺める。オフィス街の最寄り駅だけに、背広姿の男の人や、会社の制服姿の女の人をたくさん見かける。そろそろ昼休みが終わる頃合であり、行く人は皆、昼食を摂ったあとだろうか、満足気に談笑している。
 足をのばせば繁華街もあるために、駅前で待ち合わせをするのは稔だけではなかった。ちらほら見かける人は、手持ち無沙汰に携帯電話を手繰るのだ。そして時おり辺りを見回し、傍に立つ時計塔へと視線を移す。

 どれだけ時間がたっただろうか。稔は左手に立つ時計塔を見上げた。約束の時間がせまっているというのに、待ち人は現れない。何度も携帯電話を取り出してみるが、時計に狂いもなければ、彼からの連絡も入っていない。
 稔は背後の柱へ体をあずけると、眉間にしわを寄せる。甲子郎への怒りの種がまた一つ増えた。
 下唇をかみながら、稔は甲子郎の携帯電話にメールを送った。「早く来なさい」と。
 そんな時だった。頭上から声がかかったのは。
「誰か待ってんの?」
 見上げると、知らない男性が笑顔で稔を見下ろしていた。
「その人、来ないんなら、俺とヒマつぶさない?」
 稔の頭上に腕をつき、白い歯をのぞかせて、人好きのする笑みを近づけてくる。稔は男性を見上げたまま、無意識に半歩下がった。
「い、いいえ」
 夢中で首を振りながら、稔は戸惑った。知らない人に声を掛けられたことにも驚いたし、知らない人に遠慮なしに近づかれるのも嫌だった。どうしたらいいのか分からなくて、稔は心細く、不安になった。
「俺、悪い人じゃないし、そんなに怖がんないでよ」
 青年は少し困ったように眉尻を下げる。誰かの知り合いであったならば、稔とてこんなにも恐怖を感じない。どこにでもいる青年だから、笑顔の一つでも浮かべられる。
「だいじょうぶ、です。お、かまいなく」
 稔も眉尻を下げて、もう半歩後退する。
 わけもないのに近づいてくる青年に、稔は恐慌をきたす。しどろもどろに拒絶しながら、携帯電話を取り出し、甲子郎に連絡を取った。
 呼び出し音がもどかしい。いつもなら数コールの間など、ほんのわずかな時間にしか感じないのに、今は一秒が一時間にも思えるのだ。
 早く早くと急きたてる自分の心臓が、さらに彼女を焦らせる。耳には相変わらずのコール音。
 それに携帯電話の着信音。
「え?」
 稔はハッとして顔を上げた。
 とても近くで、聞いたことがある音――甲子郎の携帯電話の着信音がするのだ。
「あれ。稔さんこんなところにいたの」
 声の出どころを見上げると、柱の影からひょっこりと顔を出した甲子郎の姿。どうやら互いに柱をはさんで待ち人を待っていたようなのだが、そんな間抜けな事態も、今の稔にとっては天の助けだ。もっとも、甲子郎が間抜けをせずに、事前に稔を見つけていたら、こんな事態にもならなくて済んだのだが、彼女がそれに気付くのはもう少し後の話である。
 稔は一も二もなく甲子郎に抱きついた。正確に言えば、彼の胴体にしがみついたのだ。甲子郎の顔を見て、不覚にも安堵で涙が出そうだった。
「みのーりさーん?」
 驚いた甲子郎の声が、頭上から降ってくる。普段では滅多に聞くことのできない珍しい声音に、稔はできる限りの力を腕に込めた。
「ちょっと、く……くるしいかな」
「遅い」
 甲子郎の訴えに応えるべく、稔はもっと腕に力を入れてやった。しかしひ弱っ子の稔の細腕など、高が知れているものだ。甲子郎の胸に顔を押し付けて、甲子郎を責める言葉を呟く。
「ごめんごめん」
 甲子郎は相変わらず、悪びれた様子もなく、稔の頭を気安く撫でるのだった。
 その優しい手つきは、実兄・晃則のようで、徐々に心が平穏を取り戻していくのを、稔は感じていた。

 ようやく稔が顔を上げた時には、件の見知らぬ男性はおらず、甲子郎に答えを求めると、稔が甲子郎にタックルをかましたところですぐに去っていったそうだ。
 稔はほっと安堵の吐息を吐き出す。未知の体験に、半ば恐慌状態におちいっていたが、今でも何がなんだか分からない出来事だった。できればあまり体験したくないことである。
 そんなことを考えている稔とは裏腹に、甲子郎は彼女の左腕を取った。まじまじと彼女の左手を凝視しては、眉間にしわがよるのを、稔は不思議に眺めていた。
「これから外に出るときは、したほうがいいよ」
 なんのことだか分からずに、稔は彼が見ていた自分の左手――左の指を眺めて、はたと気付く。ああそうか、結婚指輪をしておけと彼は言うのか。
「忘れていました」
 一応、形だけとはいえマリッジリングを作らされたのだ。し慣れていないものなので、普段はつけたくなくて箱の中にしまったままだった。
「さっきの困った事態にも遭遇しなくなる。もっとも、稔さんほどじゃ、効果はあんまり期待できなさそうだけどねえ」
「はあ」
 稔の頭を撫でていた手は、ゆるゆると頬をかすめる。くすぐったいのだが、我慢できないほどではなので、稔は彼のしたいようにさせていた。思考はそれよりも指輪のほうへ向いているのだ。帰ったら指輪をはめる練習をしようと。

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