仮初のつがい鳥
7−7
 朝というには少し陽が高く昇ったころ、目覚めた稔は隣を見て絶叫した。
「ひ……ひとつしかない……」
 意味不明の言葉をぶつぶつ呟いて、冷たくなったシーツを握り締めた。

 寝室には彼女以外だれもいない。寝室の真ん中に置かれた大きなベッドで、稔は膝を抱えて思案に耽った。
 本当は、寝室にはベッドは二つであるはずだった。同じ部屋で眠るのも稔は反対したのだが、そこは周りの目をあざむくためにしばし我慢してほしいと甲子郎に言われた。しぶしぶ了承し、さすがに同衾するのは彼も辞退してくれて、寝室にはベッドを二つ入れたのだ。折を見て、稔の私室に片方を移動させるという約束だった。
 それがどういうわけか、寝室にははじめて見る馬鹿でかいベッドが一つだけ。
 稔は勢い良く顔を上げ、ベッドを飛び降りると家中を走り回った。扉という扉を片っ端から開け放し、他にベッドがないか確かめた。
 最後の一室にベッドがないことを確認した時、彼女は床にくず折れた。
「やっぱり、アレは甲子郎さんだった……のかな……?」
 昨晩、夢うつつで感じた心地良い暖かさは、今思い返せば紛れもなく人肌だった。稔はあろうことか、そのぬくもりに縋ったのだ。いくら理性の働かない状態だったとはいえ、自分の失態に頭を抱えたくなる。
 そして、昨晩寝室に入った時点で、どうして気付かなかったのかと、過去の自分の過失を呪うばかりである。
 しかし呪うのはなにも自分の間抜けばかりではない。
 稔は暗い炎の宿った瞳を上げて、リビングへ向かった。
 昨日放置した携帯電話が、ソファの上に転がっているはずだ。しかし目当ての場所にはなく、そのすぐ目の前のローテーブルに、充電器に差さって見つかった。気の利きすぎる同居人の小さな親切は、稔の憤怒もそいでしまう。
 稔は力なくソファに腰掛けると、充電器から携帯電話を外して電話をかけ出した。いささか勢いはそがれたが、彼女の怒りがなくなったわけではない。
 一言言ってやらねば気が済まないのだ。
「ちょっと甲子郎さん!」
 数コールののちに相手方の声が聞こえる前に、稔は噛み付くように怒鳴った。
『ああ、稔さんおはよう。よく眠れた?』
 彼女の憤怒などまるで気付きもしないかのように、甲子郎はにこやかな声であいさつをする。
「ええ!おかげさまでぐっすり、今の今まで眠っていましたよ!」
 しかし悲しいかな、彼女は割りあい素直な性格なので、嫌味は言っても嘘は言わない。そして甲子郎はそれを好ましく思っていることを、彼女は知らない。
『朝ごはん食べた?テーブルに置いてあったでしょう?』
 いつもと変わらない穏やかな声音に、ふたたび勢いをそがれ、彼女は黙ってダイニングテーブルに近づいた。
 卵焼きと紅鮭に、大根の味噌汁。オーソドックスな日本人の朝食が、一人前置いてあった。そして脇にはハガキ大のメモ用紙。仕事でいなくなる旨と、昼には帰って来ることが書いてあった。
 嫌味なくらい完璧で、稔は苦虫を噛み潰したような表情になる。
『稔さん、大丈夫?俺の話、聞いてた?』
「聞いてない。朝ごはんもまだ食べてない」
 なんとなくおもしろくなくて、稔は心配気な甲子郎の低い声に、わざとつっけんどんに答えた。
 さすがに甲子郎も言葉を詰まらせ、むっとした様子だった。
『……だったら今すぐご飯を食べること』
 低い声で怒っているのに、口にするのは保護者じみたものだ。稔は携帯電話を肩で固定しながら、器用にご飯を食べ始めた。
『稔さん、おいしい?』
「はい、非常に」
 朝食を食べ始めたことを、食器の立てる音で気付いたのか、甲子郎の声が幾分か和らいだ。稔は電話しながら食事を摂ることに、行儀が悪くかつ食べにくいと思いながらも、向こうが何も言わないので続行することにした。
 そういえば、甲子郎の手ずから作った料理を、初めて食べる。こういうのは普通、女が男に食べさせて、「おいしい?」と聞くものではないだろうか。あべこべな自分たちに、言いようのない面白さを感じたのだが、悔しいかな彼の料理は言葉をなくすほど美味しかったので、稔は黙々と皿を空けていったのだった。
『ああそうだ、稔さん。俺、ちょっと昼には帰られなくなったんだ』
「はあ、そうなんですか」
 今日は土産だけ渡して、すぐに帰って来る予定だったが、彼がいないと片付かない用事でもできたのだろうと、稔は関心薄く承諾した。
『ちゃんと夕方には帰るから。それから、ちょっと確認してもらいたいんだけど。玄関に土産置き忘れてない?』
「ちょっと待ってください」
 ちょうど朝食を平らげた稔は、箸を置いて椅子から立ち上がった。
 玄関に向かうすがら、開け放たれた部屋の扉という扉を閉めていった。扉の閉まる音に、甲子郎から何をしているのか不審に訊ねられたが、さすがに詳細は答えられなかった。
 玄関に辿り着き、きのう稔が甲子郎に頼まれて置きに来たそのままの形で袋がすみで鎮座していた。
「ああ、お土産の袋ありますよ。甲子郎さん忘れていったんですか」
『……ちょっと、考え事してて』
 言いよどむ彼の感情は、声だけでは判別できず、稔は不思議に首をかしげた。しかし彼女には関係のないことだ。
『あったんならいいんだ。どこかに置き忘れてきたんじゃなくて安心した。明日改めて持っていくからそのままにしておいてよ』
 持って出たか出てないかも憶えていないほどの考え事とは、ただごとではない。そんな彼に任せておいて、果たしてこの土産物たちは、目的の人々のもとへたどり着けるのだろうか。
 それは少しの不安と親切心から出た言葉だ。
「よかったら、持っていきましょうか?今から仕度するので昼過ぎになると思いますけど」
『……じゃあ、近くまでお願いするよ。ついでに一緒に昼飯食べよう』
 しばしの逡巡の末、絞り出した甲子郎の声は、あまり嬉しそうではなかった。

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