仮初のつがい鳥 |
7−5 |
空腹も満たされて、機嫌よく帰ってきた二人は就寝までの時間を何とはなしに過ごしていた。 くつろいだ状態でソファに身をあずければ、いつのまにかゆらゆらと夢の世界がやってくる。 テレビのリモコンを片手に、ニュースを見ていた甲子郎は、隣で舟をこぎ始めた稔に気付いて、彼女の肩を揺さぶった。 「稔さん、こんな所で寝ちゃだめだよ。ちゃんと布団に入りなさい」 旅行から帰ってきたばかりか、荷解きや土産物の整理をやってのけ、ゆっくり休息する時間もなかっただけに、彼女の疲労は極限なのだろうと甲子郎は理解する。しかし稔は起きる気配なく、わずらわしそうな唸り声をあげると、また静かな寝息をたて始めた。 「まったく手のかかる……」 甲子郎は溜息をひとつついて、ソファから立ち上がった。 抱き上げてベッドまで運ぼうと、彼女の前で身をかがめたところで黒い髪が目に入る。きっちりと結わえた二本のお下げ髪は、きつく編まれていて一分のすきもない。 これでは眠るのに頭が痛くなるだろうと思い、甲子郎は髪留めのゴムを外し、髪をほぐし始めた。ゆるいウェーブの型がついて、波打つ艶が彼女の腕に流れる。 手櫛で梳きながら、甲子郎はぼんやりと今日のことを考えた。 どうして突然あんなことを言い出したのだろう。なぜ、稔に敬語を使わせないように、必死になる必要があったのだろうか。説得どころか、最後は脅迫に近かった。甲子郎は思い出して、自分の大人気なさに顔が赤くなるのを感じた。 はじめはそう、彼女への心積もりを語っているつもりだった。少しでも彼女の心の負担が少なくなるように話し合うのは当然のことだと思う。 正直なところ、甲子郎にだって心配事はある。一人暮らしは経験あるが、他人と一緒に住むのは初めてのことなのだ。自分のテリトリーを侵されるのはひどく緊張することで、しかし優先すべきは自分よりもなお、不安を抱える稔のことである。 自分の望む道を生きてきた甲子郎にとって、稔は非常に不憫な境遇であると思う。彼女の沈鬱な表情に、力になってあげたいと思った。 それは親が子を、兄が妹を庇護する感情に酷似している。 ただ、彼が稔を想うほどには彼女は甲子郎を慕ってくれないのが寂しい限りだった。晃則とよく似た、懐こい笑顔がまた見たいのだが、会わない間に信頼をなくしたようだ。 信頼回復には時間がかかることだろう。 信頼してもらいたいと思う反面、彼女をからかって、たびたび信頼をなくしてしまう自分に苦笑いを浮かべる。彼女の信頼は、ある意味では欲しくない。 ほどいた髪がからまることなく、甲子郎の指を滑り落ちていく。指通りの良い彼女の髪を触るのが彼は好きだった。 晃則などは甲子郎の髪質もよく褒めたものだが、彼から言わせれば稔にかなうものなどなかった。彼女の髪は手触りの良いまま、幼い頃から変わらない。 甲子郎が髪を弄んでいると、稔がわずかに身じろいだ。その反動で彼女のまぶたが薄く開く。 「ん……」 小さな唸り声のあと、開いた瞳が見上げて捉えたのは、甲子郎の双眸だった。 寝ぼけまなこがじっと見上げてくるのを、甲子郎も凝視していた。 段々と稔の瞳孔が、焦点の合いつつあるのに甲子郎は腹の中でほくそ笑んだ。手櫛のままつかんだ髪のひと房を持ち上げると、唇を寄せる。 「ひいっ」 人の声よりは動物の鳴き声のような音に、甲子郎は笑いそうになる。おかしくておかしくて、だから止められない。 てのひらから黒い絹糸がさらさら流れる。にやりと、彼女の嫌がる笑いを口の端に乗せて、少し顔を近づけた。 「な……なにするんれすか」 眉間にしわを寄せ、表情を取り繕うこともできず、嫌悪感あらわに稔がにらむ。 だが、つかの間の眠りから覚めたばかりの、もつれた舌で喋ったものだから、緊張感に欠けるのだ。 「さあ?このまま稔さんが、ここでうたた寝していたらどうなるだろうね」 会社で女子社員が喜ぶ笑顔を貼り付け、彼女の頬にかかった髪をすくった。 髪の生え際に甲子郎の指が触れ、途端に稔の肩が激しく揺れた。 「ねっ……寝に行きます!おやすみなさい!」 脱兎のごとく魔手から逃れ出た稔の背中を見送って、甲子郎は肩を震わせソファにもたれかかる。 「おやすみ、良い夢を」 |
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