仮初のつがい鳥
7−3
 思ってもみなかった稔の反論に、甲子郎は呆然としたまま己の形式上の妻を凝視した。対する稔は釈然としない面持ちで、甲子郎の言葉を待っている。
「なぜって……。きみは晃則に敬語なんて使わないだろう?僕はいわば晃則の代わりだから、遠慮や気遣いは不要なんだよ。一緒に暮らしていく上で、精神的な隔たりは減らしたほうがいい。僕らには歩み寄りが必要なんだ」
 言葉が募るたび、眉間にしわが寄っていくのを彼は気付いているだろうかと、稔は甲子郎の額に視線を注いだ。彼が言葉を尽くしていることにもお構い無しで、彼女は暑さにまいった思考の中、粘つく口内の水分を強制的に嚥下する。
「甲子郎さんだって、言わないじゃないですか」
 からからに干からびそうな口を押し開け、稔はなんとか声を発した。思考はいまだはっきりとしないが、言われっぱなしになるのもしゃくに障るのだ。
それに彼女にだって言い分はある。彼だって稔に遠慮している。
「なにを?」
 自分では気付いていないだろう、眉間にしわを寄せたまま、甲子郎は聞き返した。挑戦的な彼女の瞳の色にあおられそうだった。しかし彼女と口論する気はさらさらない。そもそもひと回りも離れた子どもとけんかする大人がどこにいるだろう。
「私だって知っています。お兄ちゃんといる時、甲子郎さんは自分のことを僕って言いませんよね?」
 人に遠慮するな、気遣うなと強要するのなら、自分からまず歩み寄れと稔は甲子郎の瞳をにらみつけた。
「普段は俺って言ってるの、私は知っています」
「分かった、じゃあ直す」
 即答する甲子郎に、今度は稔が眉間にしわを寄せる番だった。
「その代わり、稔さんも俺に対して敬語は不要。いいね?」
「いやです」
 顔をしかめて唇をとがらせる稔に、甲子郎は一時ほぐれた眉を再び寄せた。
 互いににらみ合い、無言の圧力をかけ合う様は竜と虎ほどにも迫力はなく、せいぜいタツノオトシゴと子猫といった程度か。
「だいたいその提案は納得できません。歩み寄りが必要だと言うのなら、口調や呼び方を変えることよりも、信頼関係を築くことが大切でしょう?形から入るなんて安直です」
 思考の片隅で暑いと感じながらも、稔の意識は大半が甲子郎への反論に持っていかれていた。自分では正論を言っているつもりであるが、穴だらけで攻められれば瞬く間に瓦解するだろうことは予想できている。
 甲子郎の反論を待つべく奥歯を噛み締めその時を待っていたのだが、彼のほうでも唇を真一文字にむすんで稔を見下ろしており、不毛な沈黙がわずかな間ながれた。
 何も言おうとしない甲子郎に、本気で怒らせたのだろうかと、稔が己の身を危ぶんだ頃、ようやく彼が口火を切る。
「きみが心底いやなら、俺には強要する権利なんてない」
 かち合った視線は甲子郎のほうから逸らされ、彼は視線を床に落として稔に背を向けた。ゆっくりとした歩調で、しかし彼の長い脚では室内をめぐるのに、そう時間は要しない。
 稔は首を回して彼の動向を見ていた。
 窓の鍵が開く金属音と、続くサッシのすべる音。次いで、熱いはずの空気が吹き込み、汗ばんだ肌を撫でれば、爽涼とした風に感じる。汗が気化する時に体温を奪っていくから涼しく感じるのだと、知ってはいるけれど、なんとも不思議な現象だと稔は思う。

 室内の大気の循環を実感すると、ようやく稔はソファから立ち上がった。
 甲子郎はベランダに面した窓際にたたずみ、覇気のない眼光で稔を見ている。
 彼の神妙な表情に、いくばくもない稔の良心はちくちくと痛んだ。引け目も罪悪もないというのに、彼の揺らめく瞳を見るとたじろいでしまうのだ。
「甲子郎さんが遠慮するな、と言う気持ちも分かりますが、だからと言ってすぐに切り替えられるほど、私は器用な人間ではありません」
 心の底では、彼に心を開かない自分が憤怒でいる。こちらを見て、警告するのだ。心を許してはならない。いつか別れるときが来るのだ、近づきすぎれば泣くことになる、と。
「けれど、あなたが望むのならば、努力はしましょう。それが歩み寄りになるのならば」
 しかし結局は、彼の縋るような雰囲気にほだされ、譲歩してしまった。平穏を望むもう一方の自分が、彼との生活を円滑に進めるため、少々の折り合いはつけなければならないと判断したのだ。
 稔の妥協を得られた甲子郎はというと、彼女にはとても真似できない変わり身のはやさで、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「俺も、稔さんの信頼を得られるよう頑張るよ」
 先ほどの神妙な顔つきは、彼女を陥落させるための手段だったのかと勘繰り
たくなる綺麗な笑顔だ。彼が起業する上で身につけた処世術なのだろうが、今後一切、信用に値しない表情であると、稔は数多の女性を虜にする江副甲子郎の笑顔を評価した。

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