仮初のつがい鳥
7−2
 真顔の彼に、理由の説明できない怯えを感じながらも、稔は首を戻して無言のまま靴を脱いだ。
 ひやりとした硬い感触が、足の裏を撫でる。廊下を進むにつれ、わずかに漂う塗料の匂いが、真新しい家の存在を誇示しているようだった。
 家自体は、数回であるが、購入時や家財道具の整理などで訪れている。
 だが、さきほども甲子郎が言ったように、これからここが住まいになるのだから、今まで住んでいた両親のいる家に帰る必要がなくなったことに、ひどい違和感と不安を感じた。
 リビングへ抜けて、広い空間にぽつねんとたたずめば、言いようのない喪失感を覚える。我知らず、唇を噛み締めていると、不意に手を触れるものがあった。
「まあ、とりあえず座ろう」
 手を引かれるままに従い、稔は甲子郎と共にそばのソファに身を沈めた。
 窓も開けていない、エアコンもついていない部屋は、日差しのみが入る、いわば温室状態だ。当然、室温は外よりも高く、止めようもない汗の雫が稔の耳のわきを滑り落ちる。
 不快な暑さであるにもかかわらず、稔はソファの背もたれに身を預け、天井をぼんやり見上げていた。甲子郎の手はいまだ稔と繋がったままであり、分かち合う体温は燃えるように熱いというのに、稔はそれを振り解けなかった。
 それどころか、不安にさいなまれる心はその腕に縋りつきたいとさえ訴える。しかし、衝動は必ずしも行動と結びつくとは限らない。ただ、触れる手のみを拠り所とし、静寂に身を預けるだけだった。

「稔さん」
 不意に呼ばれ、稔は隣に座る甲子郎を横目で確認した。
「きみはまだ子供だし、この結婚も真実、望んだことじゃない。好きでもない他人と一緒に暮らす不安や負担は、大人である僕の比ではないと思う」
 自分と同じ体勢で、天井を見上げて喋る甲子郎を、稔は凝視した。改まった風でもなく、真面目な話を突然、なんでもないことのように話し出す。
 稔は相槌を打つでもなく、ただ彼の話を聞いていた。
「先のことはどうあれ、僕はきみの、形式上の夫であると同時に当面の保護者になったわけなんだ」
 甲子郎は天井に向かっておもむろに両腕を突き出す。そのまま腕を振り下ろした反動で、彼はソファから立ち上がった。
「まあ、言ってみれば晃則みたいなものだから」
 兄の名前を出されて稔は怪訝に眉間を寄せる。話の方向性が読めないのだ。
「その、敬語を使うのは止めにしないかな?」
 先を促そうとした所で甲子郎が続きを口にした。ためらいがちに続けられた彼からの要求とも取れる提案に、稔はしばし沈黙する。
 話の切り出し方からは想像もつかない結論だった。今までの口上から察するに、もっと大事――例えばこれからの生活における彼の心構えであるとか、稔に対する待遇であるとか――を話し出すのかと思っていたら、とんだ小事である。
 彼にとっては重大な事柄なのかもしれないが、稔にとっては肩透かしを食らった気分だ。
「なぜですか?」
 だから無愛想に質問で返してしまう不親切も致し方ないと、面食らう甲子郎の顔に、良心の呵責を抱きつつも稔は心で思うのだった。

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