仮初のつがい鳥
6−11
 むっつりと唇を尖らせ、稔は車窓から夕闇に流れる景色を瞳に映していた。
 日付変わって、今日は観光に許された最後の日。明朝には帰宅の途に就く手はずとなっている。
 残された時間はもうわずかしかないというのに、どうしたって気分が晴れない。
「寒くない?」
 隣でハンドルを握る甲子郎が車内の温度を上げるべく空調のスイッチを操作する。横目でチラと彼女の様子を窺うものの、呼びかけても返答のないことに彼は苦笑を噛み殺した。
 出来ることならば稔も笑顔で旅程を終えたいものだが、気持ちの切り替えと言うものはなかなかに難しい。彼女のような若年者においては特に。
 昨日、病み上がりの体で全力疾走をした稔は、体調を崩すことこそしなかったものの、甲子郎にこっぴどく叱られた。
 稔からしてみれば非があるのは甲子郎であるのに、説教されるのはどことなく理不尽である。過剰な反応をしたと、彼女も反省はしているが、そもそも甲子郎が仕様もないことを言い出すから出た行動なのだ。
 自分は悪くないと思っているからこそ、気まずい思いを抱えつつ、甲子郎への返答は次第に尻すぼみになっていき、終いには口を閉ざす始末だった。
 しかし甲子郎の方は、稔の激昂も、自分の叱責も、まるで気にした様子もなく普段と変わりない。それどころか、稔からの反応がないことにも気を悪くするでもなく、ただ苦笑いを浮かべるだけなのだ。
 自分が彼の状況に置かれたならばきっと我慢できるはずがない。稔はその状況に追いやっている張本人であるにもかかわらず、彼の精神構造に感服した。
 窓の外を眺めるふりをして、ガラスに反射する甲子郎の涼しげな横顔を睨んだ。大人は誰しも、本心を隠してうわべに笑顔を張り付かせ、優しさを取り繕うことができるのだろうか。真っ直ぐ前を見て運転する彼の表情からは、稔に対する感情をうかがい知ることは出来ない。
「やっぱりまだ寒いかな」
 再び甲子郎から言葉が発せられて稔の肩がはねた。直接ではないにしろ凝視していたことを悟られたのかと驚いたのだ。
 慌てて運転席を振り向けば、彼は視線を進行方向に向けたまま左手で空調を切っていた。そして左手でハンドルを持ち直すと、右手の下でかちりと小さな音がする。同時に背後から風が吹き荒れ、稔の長い髪は四方八方に巻き上げられた。
 窓へ視線を戻せばそこにガラスはなく、墨染めの景色が飛ぶように流れていく。いつの間にか夜の帳は降りきってヘッドライトがカーブを描く道路に光を落としていた。
「人工の涼しさよりもやっぱり自然の空気がいいと思って」
 風に遊ぶ毛先を押さえ、視線を向ければ彼はやはり前を向いたまま、口元にはほのかな笑みをにじませていた。
 盛夏のむせ返るような熱気は、陽が落ちれば鳴りを潜める。それでもアスファルトの街中では深夜になっても熱風が吹くものだが、山頂に向かって走る道では幾分か涼しげだ。空気の流れる強い轟音とともに、遠くに聞こえる波の音と潮の香りが風に乗って届くようだった。
 稔は清々しい空気を肺腑に吸い込んで目を閉じる。胸につかえていたモヤモヤがすっとなくなるようだった。
「大丈夫、です」
 俯いたまま目を合わすこともできなかったが、自然と言葉が出た。約一日ぶりの稔の声に、甲子郎は短く息を吐いて嬉しそうに目元を緩ませたのだが、俯く彼女が気付くことはなかった。

 車内の空気が少し和らいだところで、車は緩やかにスピードを落とし、止まった。窓から見える景色は、闇に飲まれた木々の影と点描の夜空だけ。
 稔は目的地を知らされておらず、なんとなく分かってはいるものの、本当に予想している所へ向かっていたのか確信できないではいた。
 甲子郎が真っ先に降り立ち、助手席側へ颯爽と歩み来る様をフロントガラス越しに稔は眺めた。優雅な所作で扉を開けると、当然のように手を差し出してくる。
嫌になるくらい様になっていて、こちらがエスコートに甘んじるのもごく自然なことのように思えてくるのだ。
 稔は甲子郎に手を引かれ、高台から市街を見下ろした。
「わあ、きれい」
 眼下に広がるは半島を形作る無窮の光。奇すしき空の星にも似た人の営みの証。天地が逆さまになるかのような錯覚さえ覚える光の群れは、筆舌に尽くしがたく、稔の心を捉えて放さない。
「甲子郎さん、とても綺麗です。嬉しい、ありがとう」
 予想していた通りの場所に連れてこられたわけだが、目の当たりにした夜景は彼女の想像を凌駕して思いがけない感動をもたらした。
 感嘆の言葉は彼女から笑顔を引き出し、わだかまりをすっかり取り去った。
「やっと稔さんの笑顔が見られた」
 そう言って彼は朗らかに笑う。途端に稔は昨日から今までの行動の稚拙さに恥ずかしくなり、赤面する頬を押さえた。
「ごめんなさい」
 やはり心の中では自分に非はないと思っていたが、彼を蔑ろにしたことに関しては悪いと思っている。彼女の殊勝な様子に、甲子郎は一瞬面食らったが、笑みを深めると彼女の頭に手を置いた。
「気にしなくていいよ、僕は怒っていない」
 その言葉と満面の笑みに、彼が本当に気を悪くしていないと稔は安堵した。
 しかし彼女は浅慮で浅はかで世間知らずだった。油断した彼女の頭上に置かれた大きなてのひらが、一気に彼女の髪をかき回したのだ。
「いやーー!!」
 みるみるうちに鳥の巣へ変貌を遂げる自分の頭を、稔は愕然とした面持ちで抱える。顔を真っ赤に染めて甲子郎を睨みつければ、満面の笑みを崩さぬ彼の表情がしたり顔であることに気付き、目を見開き呆然とした。
「丸一日も無視されて平気なわけないじゃないか。僕だってね、そこまで人間できてなんだよ」
 聖人君子じゃあるまいし。と、彼の言葉はもっともであるし、大人は本心を隠しおおせるものだと立証できた。ちなみに稔が単に甲子郎の顔色を見抜けなかっただけということも言えるが、それは彼女の考えが及ばぬ所である。
 ぐしゃぐしゃになった髪の毛を涙目の稔が必死に整えて、甲子郎はそれを笑いながら見ているのだった。

 ひとしきり笑い終わった甲子郎と、あらかた髪を整えた稔の間に沈黙が降りる。二人は互いに言葉を発さぬまま、視界いっぱいに広がる夜景を眺めていた。
清涼とした山風に髪がなびく。稔も乱れた髪をいちいち直しはしなかった。
「これから、よろしく」
 不意に聞こえた低音に稔は隣をふり仰いだ。
甲子郎は運転していた時と同じように、夜景に視線を集中したまま、口元にはわずかな笑みを残している。あんまり不意打ちのようだったったので、稔は今度はガラス越しにではなく、直接彼を凝視した。
 すると甲子郎は横目で稔に視線を送り、居心地が悪そうな顔を向けた。
「しばらく一緒に生活するからね。だからよろしく」
 改めて言われるとなんだか面映い。稔は唇を引き締めて、なぜだか緩む口元を手の甲で隠した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 不束者の粗忽者でございますが。なんて、嫁入りの常套句を言ってみれば、大笑いされたのだった。

 甲子郎の言う「しばらく」の時間を予想しながら、稔は改めて夜景に視線を移す。学業、生活、社交、未来への展望に不安は尽きないけれど、一人で生きていく為に、きっと達成してみせるのだ。
 ぎゅっと柵を握り締め、稔は地上のきらめきを胸に焼き付ける。いく年月を経ても、この夜の景色は彼女の記憶に深く残るのだった。

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