仮初のつがい鳥
6−10
 何かのメロディーが聞こえてくる。稔は音の発生源を探り、周囲を見回した後、隣に視線を固定させた。
 甲子郎が鼻歌を歌っていたのだ。
 甲子郎と鼻歌が結びつかなくて、稔は思わず隣の気分良さそうな人を凝視した。彼は坂道を歩きながら同じ曲を延々と口ずさんでいる。稔には何の曲なのか分からなかったのだが、甲子郎のご機嫌な様子に水を差すのは躊躇われたので、そのまま初めて耳にするメロディーに合わせて歩いていたのだった。
 意気揚々と人の手を振り回して歩く甲子郎を見ていると、稔もだんだんと楽しい気分になってくるのが不思議だ。足並みをそろえて歩き、路面電車の線路をまたいで、古めかしい建物をひとしきり眺め回して、また坂道を下っていく。
 ずっと手を繋いだままだったのだが、嫌な気はしなかった。それなりに隣の彼を信頼しているということだろうか。稔は自分の行動から感情を分析した。
 坂道を下りきった所でようやく甲子郎の鼻歌も足も止まり、稔は甲子郎を振り仰いだ。
「何の曲だったんですか?」
 ここぞとばかりに自分の疑問をぶつけてみたのだが、甲子郎は稔の言葉に一瞬息を詰まらせ、困ったような哀愁漂うなんともいえない複雑な表情を顔に滲ませた。
「むかしの……コマーシャルの歌。ここの坂道が撮影舞台だったんだ」
 むかしの、を極力小声で言うあたり、稔とジェネレーションギャップを感じたが自分の若さを諦めきれない感が漂っていて、往生際が悪い。
「それは知りませんでした。どんな宣伝だったんですか?」
 しかし稔は気にも留めず、興味深げに聞いてくる。きっと甲子郎が手を繋ごうなどと奇妙な発言をした原因だろうと推測してのこと。
「食器用洗剤でね、それを使うと手を繋ぎたくなるっていうキャッチフレーズの歌詞なんだよ」
 ジェネレーションギャップに甲子郎が傷ついていたことなど全く分かってない稔に、彼は内心安堵の息を吐き、気を持ち直して話し始めた。
 脳裏に浮かぶのは、十数年前に見たテレビコマーシャル。緑色の食器洗剤。
「それでその歌にあわせて、若夫婦が仲睦まじく手を繋いでこの坂を下ってくるんだ」
 思い出しながら話していると、甲子郎の気分はすっかり浮上してきて、笑顔まで浮かべていた。
「……若夫婦……」
 対照的に話を聞いていた稔の方は、眉間に深い縦皺を刻み、急降下する機嫌に周りの空気が冷めるほどだったが、幸か不幸か甲子郎は自分の思い出に夢中で彼女の漏らした呟きにすら気付けなかった。
「その後に老夫婦が同じように手を繋いで――」
 彼の言葉は途中で遮られ、その先が続くことはなかった。繋いでいた手を、稔が空手チョップでぶった切ったからだ。
 甲子郎は驚きすぎて開いた口が塞がらなかった。よもや稔がそんな奇行に出るとは思ってもみなかったのだ。
 甲子郎を振り返りもせず、稔は一人で足音高く進んでいく。二人の間が五メートルほどになった時、おもむろに稔が振り向き、大口を開けて叫んだ。
「仲むつまじい夫婦じゃないもん!」
 それだけ言うと再び進行方向に向き直り、先刻と同じように甲子郎に背を向けて、今度はもう振り返ることなく歩き出した。
 重ねて呆気にとられた甲子郎は、しばらくの間言葉を失っていた。徐々に正気を取り戻すと同時に、沸々と湧き上がる衝動を抑えきれず、噴出した後は笑いがなかなか止まらなかった。
涙目で滲む視界の中で、稔が脱兎のごとく走り去る後姿を捉えた。
 追いかけてその顔を見たいと思ったが、それよりも腹のよじれる笑いをおさめることが出来ず、甲子郎はしばらく苦しい思いを強いられることとなった。

 病み上がりで走った稔は、もちろんその後、甲子郎につかまってこってり叱られたことは言うまでもない。

BACK * TOP * NEXT