仮初のつがい鳥 |
6−9 |
潮の香りがして稔は振り返った。窓の外に遠く広がるのは空と海。 「綺麗……」 呟いてバルコニーを出ると風に髪をさらわれた。 眼下には坂道と、それを下っていった先に湾を抱く港がある。木製の欄干に手をついて、感動のあまり身を乗り出し景色を楽しむ稔に、背後から静かに声がかかった。 「稔さん、落ちても助けないよ」 稔は振り向くと、木の床をきしませて近寄ってきた甲子郎に唇を尖らせる。 「落ちたら助けなくちゃ、甲子郎さんの悪評になりますよ」 「助けなくても、妻が落ちた時点で醜聞だよ」 甲子郎は挑発するように、口元を隠して笑った。いつもならここで甲子郎に憤りを覚え、すぐにへそを曲げてしまうところなのだが、今日の稔はすこぶる機嫌が良いので素直に欄干から手を放したのだった。 「次、見てまわりましょう」 景色を後にして稔は甲子郎の横をすり抜けた。 言い返してこない彼女に、甲子郎は一瞬おやと片眉を上げたのだが、機嫌よく揺れる彼女の後ろ髪に目を細めた。 「早く」 「はいはい」 急かされて、もったいぶって歩き出す自分の機嫌もすこぶる良いのは、何も天気が良いせいだけではないはずだ。甲子郎は口の端に柔和な笑みを乗せて、稔の後を追った。 稔と甲子郎が足を運んだのは函館市の西、函館山の山麓に、帯のように点在する観光名所群。北から散歩がてらにゆっくりと歩きながらここまできた。 多くは明治時代に建てられたという古びた洋館を、稔はひとつひとつ感嘆の溜息を漏らして見物していた。 「ああ、この色使いがたまらない……」 建物を出る際も、稔は名残惜しそうに何度も振り返り、黄色と水色の旧函館区公会堂に別れを惜しんでいる。 十メートルも先を進んでいた甲子郎は、稔の様子にげんなりと溜息を吐かざるを得ない。もういい加減にして欲しいものだとこめかみを押さえた。 「稔さん、置いていくよ。一人で帰ってくるんだよ」 このまま待っていても埒が明かない。無情にも甲子郎は稔に背を向けて歩き出したのだった。稔の方はというと、甲子郎の言葉が聞こえていなかったのか、いまだうっとりと夢心地の眼差しで、可愛らしくも華麗な洋館を胸に刻み込むのに忙しかった。 「……ここに住みたい。ねえ、甲子郎さん」 最後の呟きとともに、稔が甲子郎を振り返る。いると思っていた場所には誰もおらず、呟きはただの独り言になってしまい稔は羞恥に頬を染めた。隣を歩いていた余所の観光客は、一部始終を見ていたのだろうか、微笑ましく笑いながら通りすがりに稔に声をかけていく。 「お連れの方は先に行っちゃいましたよ」 稔はますます赤面して、その人の指差した方向を、素早く礼を言った後に追いかけたのだった。 彼の人はすでに遠くを進み、その姿は小さくなりつつあった。走って追いかけようと足を速めたのだが、病み上がりで息せき切って走る方が甲子郎に小言を食らいそうだ。その内、追いつく気はないにしろ追いかけてくる稔に気付いた甲子郎が、勝手に歩調を緩めるはずだ。 そのように心を決めた稔は、マイペースに歩き出したのだった。 ようやく稔が甲子郎に追いついたのは、洋館のバルコニーから先ほど見下ろした坂道を真っ直ぐ下っていく、その道すがらだった。 「何を見てるんですか?甲子郎さん」 坂の途中で足を止め、てっきり稔を待っているのかと思っていたら、視線は近づいてきた稔を通り越して、ふと思案顔。 首を傾げて訊ねてみれども「ああ、うん」なんて生返事が返ってくる程度で、怪訝な視線を送るほかない。甲子郎の思考を打破する気もなく、稔は彼のわきをすり抜けて先を進もうとした。 「思い出した」 勢い良く顔を上げた彼の頭上に、ひらめく電球が見えた。 「脳細胞が一つ死んでしまうところだった」 わけの分からないことを口走りながら、チカチカと甲子郎の大好きな豆電球が、彼の頭上を点滅している。夢か幻か、稔にはそのように見えて仕方がない。 「思い出せないことを、忘れたままにしておくと、脳細胞が死滅するんだってさ」 聞いた話だけど、と一緒に立ち止まった稔に甲子郎は笑いかけた。 誰もそんなこと聞いてない。稔はいかんともしがたく「そうですか」と曖昧な相槌を打つだけだ。 だいたい脳の神経細胞は年齢を重ねるごとに死滅していくものなのだから、百億だか一千億だかある神経細胞の内の一つや二つが、物忘れによって駄目になろうと、物の数にも入らないのではないだろうか、と稔は思う。 「で、何を思い出したんですか?」 話題の転換を図るべく稔は甲子郎に声をかけた。脳細胞の話なんてもうたくさんだ。そもそも賢く聡い甲子郎がおいそれと物忘れなんてしないだろうし、心配せずとも脳細胞の数で困るのはまだずっと先の話だ。 それよりも早く話をしろと、稔は甲子郎を見上げた。 「手を繋ごう」 「はい?」 無駄に綺麗な笑顔で、やっぱりわけが分からない発言しか出てこなくて、稔は思わず声高に聞き返した。しかし甲子郎は稔の機嫌などお構いなく、自分の要求を押し通さんばかりに手の平を突き出してきた。 「この坂道は手を繋いで下らなくちゃいけないんだ」 明らかに嘘っぱちだ。そんな決まりごとがあるわけがない。稔は綺麗に笑う甲子郎の顔に疑念に満ちた眼差しを送ったのだった。 公的には夫婦だが、手を繋いで道の往来を歩けるほど仲の良い間柄ではない。普段の稔なら一瞬の躊躇もなく、甲子郎の差し出した手を叩き落としていたことだろう。 しかし今日の稔はすこぶる機嫌が良い。 風邪で外出できなかった鬱屈が、今ようやく解放されたのだ。目の前の人の要求など、ささやかなものとしか感じられないほどに、今日の気分は高揚している。なにものにも寛大になろう。 「まあ、いいでしょう」 口の端をわずかに引き上げ、仕方がなく、といった風情で、稔は甲子郎の差し出された手の平に自分の手を重ねた。 |
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