仮初のつがい鳥
6−8
 目の前に並んだメロンの皮を前に、甲子郎は感心するように息を吐いた。
「はー、米は一匙しか食べられなくてもコレは半分も食べられるんだねえ」
布巾で口と手を拭う稔と綺麗に皮一枚で残されたメロンを交互に見遣る。八等分されたものが一つずつ皿に乗り、それが四枚。半玉の計算になる。昨日の昼に食べた量と変わらない。
弱った体だというのに、好物への胃の働きは通常と等しく動くらしい。
しかしその薄い爪楊枝のような体の中にどうやってあれだけの量を入れているのか何度見ても不思議な光景だと甲子郎は唸った。
「甘い物は別腹と言いますか、米を前にしても微動だにしない胃袋も好物を前にすると動きが活発になるのです」
無茶苦茶な自論を展開しているように思えるが、それは道理に合っている。実際、満腹でも甘味などの好物を視界に入れると、脳の判断により胃が働き、無意識下で胃袋に余裕を作るという。これが別腹の正体らしい。
 しかし――甲子郎は首をひねる。
別腹が作用した所で、あの大量のメロンが稔の薄い腹の中に消えてしまうことが奇怪なのである。よもや彼女は胃袋の中にブラックホールでも飼育しているのか。一向に厚みを増さない稔の腹を不躾に凝視して、甲子郎は埒もないことを考えていた。
 稔は向かいの男の視線には幸いにも全く気づく様子もなく、腹がくちくなると再び睡魔が襲ってきたのか、もそもそと芋虫のように寝具へと潜り込んだ。間もなく聞こえてきた規則正しい寝息に、甲子郎は安堵の溜息を吐くとテーブルの上を片付け始めたのだった。

 甲子郎がひ弱だと表現したとおり、本人が体力には自信がないと豪語するとおり、稔は数日をベッドの上で過ごすことになった。
病状が落ち着いたのもつかの間、次の日には熱がぶり返し二日も寝込むはめになった。再び起き上がれるようになったのは三日目の夕方、旅程五日目のことだ。彼女は覚醒しきっていない目を何度も瞬かせて、開け放たれた窓から覗く夕焼け空を眺めていた。
「大丈夫?」
 掛けられた声に振り返れば、甲子郎が入り口に立っていた。静かに扉を閉めると稔のもとへ行き、ベッドサイドに椅子を引き寄せて座った。手ぶらを察するに何かを持ってきたわけでもなく、たまたま稔の様子を見に来たようだった。
「おおむね良いと言えます」
「それは上々」
いつも以上にかしこまった稔の物言いに、甲子郎は息を噛み殺して笑うと彼女の額に手を当てた。ほんのりぬるい熱に安心する。
 昼間に測った体温は微熱程度まで下がっていた。摂氏三十八度をキープしていた昨日までを考えると快方に向かっていると考えていいだろう。
 ベッドの上でぼんやりと窓の外を眺める稔は、病み上がりだということを差し引いてもおよそ精気というものに欠けていた。医者に絶対安静を言い渡され、睡眠と食事を繰り返し、ほとほと飽きがきているのかもしれない。
「明日は観光に行こうか」
 気がつくと稔に向かってそんなことを呟いていた。まだ体調が安定していない彼女をむやみに外に連れ出すのは憚られるが、今の稔を見ていると無性に喜ばせたくなった。
 案の定、甲子郎の呟きを耳聡く聞き逃さなかった稔は、彼を見上げては何度も目を瞬いた。彼女も外出できるとは思っても見なかったようで、まじまじと甲子郎を見つめては物言いたげに口を開き、そして閉じるを繰り返す。
「少しくらいなら大丈夫。稔さんも外に出たいでしょう?」
 甲子郎の言葉に一心不乱に頷く稔がおかしかった。唇を引き結んで、抑えることのできない喜色が顔全体に滲み出している。
「行きたいところがあるならあとで教えて」
 隣室にいるスタッフと明日のことを相談するために甲子郎は席を立った。
今日は稔が目覚めているので、希望観光地の話をするがてら共に夕食を摂ろう――退室しようと振り返った拍子。
 シャツの裾が不意に引っ張られてあわや転倒というところで足を踏ん張った自分はまだまだ若いと思う――そんなこと考えること自体、すでに若くない。
いささか気分を害してシャツを引っ張ったであろう張本人、稔に振り向くと、彼女は甲子郎のシャツの裾をいまだ握り締めたまま、視線を泳がせていた。
「あ……」
 しばらくの怠けから目覚めた声帯が、久しく使われていなかった音を出す。かすれて、声と呼ぶには錆付いたような、低く濁った音に聞こえた。
本人も同じことを思ったのか、うら若き女の子の出す声じゃないと判断したのか、一気に赤面して顔を伏せてしまった。
 しかしそれも少しの間のことで、すぐさま顎を上げると赤い頬のまま甲子郎を見上げた。
「ありがとう、こうしろうさん」
 稔は言い終わるとまた顔を伏せ、掴んでいた手を放して無言で掛布の中に潜り込んでしまった。
一連の行動を、甲子郎はつぶさに見ていたが、しばらくその場に佇んで呆けているしかなかった。
 声はいつもより掠れて低かったけれど、はにかんだ物言いとか、律儀に礼を言うところとか、酷く可愛らしいと思った。

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