仮初のつがい鳥
6−7
 枕元で水の流れる音がした。うっすら目を開けると白い手ぬぐいが視界の端を掠め、次いで額に触れるひんやりとした感触に、先ほどの音が何かを知った。
そして氷嚢でも頭に乗せておけばいいのにと、世話焼きの彼に視線を転じた。
「ひ弱だねえ」
稔の視線を感じて甲子郎が笑いを含んだ声でのたまった。
 退院したのち、甲子郎が泊まるホテルに稔も移ったわけだが、その日のうちに再び発熱し、寝込んでしまった。存外寂しがりの彼女が嫌がるので、病院にとんぼ返りもできず、処方された薬と江副のスタッフの看病のもと宿泊ホテルにて療養することになった。
しばらくは意識も戻らずうなされていたのだが、陽が落ちる頃には容態も落ち着きを取り戻したので、甲子郎は実家のスタッフを帰したのだった。
 そして今は夜。静まり返った部屋の中、ぬるくなった手ぬぐいを稔の額から取り上げると、ベッドサイドに置いたたらいの中に浸し、水気を固く絞る音が響く。
「確かに……体力には自信がありませんが……」
掠れる声で稔が息を吐き出した。しっとりと汗をかいた体が不快なようで、眉根を寄せて身じろぎをすると、緩慢な動作で起き上がる。甲子郎は枕を立てかけて、稔の背に挟んでやったのだが、その甲斐甲斐しさに当の稔は余計なお世話だといわんばかりに甲子郎を見上げた。
 甲子郎はたらいを掴み、そ知らぬふりで踵を返すと洗面所で蛇口をひねった。湯気が立ちたらいになみなみと湯を張る。タオルを一つ掴んで稔のもとへ戻っていった。
あらかじめ用意していた寝間着を彼女の目の前に置き、湯に浸して絞ったタオルを訝る彼女に差し出した。
「汗拭いて着替えること」
稔の手にタオルを押し込んで、甲子郎はさっさと隣室に消えてしまった。
「そつがない……」
気が利きすぎていっそ気持ち悪いほどだ。稔は甲子郎の消えた扉をしばし眺めてひとりごちた。
さすがに双子の妹の世話を焼いて、稔の兄の世話も焼いていただけあり、面倒見が良すぎる。かゆい所に手が届きすぎる。
 普通、このような気の利く人間はいいお嫁さんになると褒められるものだが、それは女性に限ったことであり、男性であるならば嫌味にしかならない。しかし今の稔には非常にありがたくも申し訳なく、かつ居心地の悪いものだった。
しかも絞ったタオルは固くて、体を拭くのにとっても良い具合。
「これからうまくやっていけるのかしら……」
 湯気の立つほかほかとしたタオルに視線を落とし、稔は呟いた。何でも器用にこなす男と一緒に暮らさないといけないなんて、女としての自尊心を針で突かれそうだ。
願わくば、甲子郎が他人にも自分と同等の気配りを求めないことを祈る。


 体を拭いて着替えを済ませ、さっぱりとした心地で一息つくと扉が叩かれた。
「稔さん、もう着替えた?」
甲子郎は稔から入室許可をもらうと扉を開けて入ってきたのだが、その手には盆に載せられた粥の器が載っていた。どこまでも気配り上手な男だと、稔は顔を引きつらせた。
 寝込んでいた稔は昼食夕食を摂っていない。体調不良で空腹も感じなかったが、腹は満たしておかなければ治るものも治らないだろう。
 甲子郎は盆をベッドサイドに設えたテーブルに置き、稔はその前の椅子に渋々座らされた。
「次は食べる」
そう言って甲子郎は稔にれんげを持たせた。稔は一すくいを口に運び、数度の租借のあと嚥下したが、すぐにれんげを置いてしまった。
「……もう、いりません」
唇を引き結び、それ以上言葉を発しない稔に甲子郎は眉根を寄せた。
「ちゃんと食べないと、治らないよ。稔さんはただでさえ体力ないひ弱っ子なんだから」
 甲子郎の言葉にも稔はむっすりと黙るだけで、二匙目を取ろうとはしない。
「もういりません」
首を振って粥を拒否する。
「そういえば――」
 そんな稔の様子を甲子郎は思案気に見つめて、ぽつりと呟やいた。
「稔さんが米を食べるのってあまり見たことがない」
的を射た発言だったのか、稔の肩が揺れたのを聡い甲子郎はもちろん見逃さなかった。
「米嫌い?」
 怒るでもなくいつも通り穏やかに訊ねる甲子郎の口調に、幾分安堵した稔は引き結んだ口元を緩めた。
「……あんまり」
「じゃあ、何が食べたい?」
 甲子郎はさりげなく稔の前から粥の盆を下げた。偏食を見つかった子供のようにばつの悪い表情で稔は甲子郎を見上げたが、彼は先ほどと寸分違わぬ顔で稔の答えを待っていた。
「……メロン……」
遠慮がちに呟かれた言葉に、甲子郎はフッと息を吐き出して小さく笑いを堪えた。
「ああ、そうだね。好きだったよね」
そう言って彼は立ち上がったが、肩が震えていたのを稔は見逃さなかった。
「……病気の時こそメロンじゃないの」
 稔は目の前から消えた彼に向かって唇を尖らせた。

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