仮初のつがい鳥
6−6
 泣き疲れていつの間にか眠っていたようだ。
朝の冷えた空気と雀の鳴き声で目を覚ました。普段ならそんなことでは起きるはずないのに、小さな刺激にも過敏に反応してしまう。それだけ神経質になっているのかもしれない。
 枕から顔を上げると稔は目元を拭った。涙がバリバリに乾いていて、瞬きをするたびに目やにのような、涙の塊が視界を遮ったからだ。
 鏡を見るよりもまず、個室に備え付けてある洗面台で顔を洗った。
そうすると顔だけでなく頭の中身も随分とスッキリした。
洗顔を終えると稔は再びベッドへ戻り、窓を見上げながら横たわった。
 窓から見える空には霞のような薄い雲が漂っていて、徐々にその位置が移動していくのを稔はぼんやり眺めていた。
 昨晩、孤独に打ちひしがれたのが遠い昔の出来事のように感じられる。今はもう心は平穏だったが、泣いたことによって体に倦怠感を残していた。
 しばらくすると朝食が運ばれてきて、稔はそれをもそもそと食した。
誰もいない静かな室内で、己が立てる食器の音だけが響いている。
 なんて味気ない食事だろう。塩気も足りないし、賑やかさも足りない。今までは家族と一緒でなくとも、世話をしてくれる人間が誰かしらいたのだ。
今だから気付いた、本当に一人で食べる食事はこれが初めて。
 しかし稔は黙って全てを胃袋の中に押し込んで、再び枕に頭を預けた。そして窓を見上げて、また飽きもせず流れる雲を眺めた。
思い出したように時計の針を確認し、少ししか経過していない時間に溜息を吐きかけて、寸でのところで息を呑む。
「溜息を吐くと幸せが逃げる」という迷信を、信じているわけではないが、どこかで聞いて以来、気がつけば吐き出す息を飲み込んでいることがある。
今幸せ、と聞かれれば、是と頷くことは出来ない。けれど迷信であろうと真実であろうと幸せに逃げられてはやはり困る。
溜息を吐く姿はいかにも薄幸かつ陰気であるから、そんな風に見られるのは許せないので気をつけているのだ。
 ゆっくりと息を出して、二、三度深呼吸を繰り返し、また空を見上げては窓を揺蕩う雲に目を向けた。
「……甲子郎さんいつ来るんだろ」
 わざわざ声に出して言うこともないけれど、やっぱり独りでいるのが寂しくて、わざと声を出して言ってみた。言えば本当になる、言葉には力がある、そんな迷信を信じてみたくなっただけ。

 再びうとうと微睡んで、誰かが扉を開ける音で目を覚ました。
稔が枕から頭をもたげるよりも早く誰かが彼女の顔を覗き込んでいた。
定まらない視界の中で、ブレる輪郭が形作る人物を、稔は声にならない空気を吐き出して言葉にした。
「稔さん」
稔の口の動きに気づいて甲子郎が目を細めた。
稔はよろよろと起き上がると時計を探して首を巡らした。もうすでに3時間が経過していて、昨晩の疲れが出ているのだと思った。病院に来て、むしろ疲れるなど滑稽な話ではないか。
「具合は良くなった?」
 甲子郎は稔の額に手を当てて、体温を測った。甲子郎の手はひんやりと冷たくて、稔は目を閉じるとその心地良さに身をゆだねた。
しかしその手はすぐさま離れ、我に返った稔は惜しげに甲子郎の右手を見つめた。
「まだ熱があるね、昨日とそんなに変わらない」
 眉間を寄せて渋い顔をする甲子郎を、稔も渋い顔で見上げた。
もしかすると体調が良くならないから、もう一晩置いてけぼりにされるのではなかろうかという予感がしたからだ。
案の定、甲子郎が提案したのは退院の延期だった。
「もう少し、ここのお世話になろうか」
 途端にぶり返す昨夜の情景。一人きりの病室で、暗闇や静寂と戦う一夜は耐え難い苦痛だった。
「いやだ」
 自然に口をついて出た拒否の言葉を、ぽつりと呟いたつもりだったのに。
気付いた時には甲子郎が目を見開いてこちらを凝視していたのだ。
むくれて出した声は存外に大きかった。
彼の反応を目の当たりにして、はじめて稔は自分の声がしっかり彼に聞かれていたことと、子供じみた行動だったことに気付き赤面した。そして羞恥心に耐え切れず、頭が徐々に俯いていくのに抗えなかった。
しかし深く沈み込んでしまいそうになるのを、ふと我に返ることで押し留める。
 このまま何も言わなければ、甲子郎は有無を言わさず、体調が全快するまで入院させるかもしれない。彼は時々、びっくりするほど強引で頑固なことがある。それも彼の持って生まれた性質の一つであろうとは思うが、普段が柔和で協調性のある人間だけに、そのギャップに戸惑う。
だが今回は戸惑っていられない。ためらってはいられないのだ。
恥も外聞もかなぐり捨てて彼に言わなければいけないのだ。
「いやだ……」
 稔は呟きながら恐る恐る顔を上げた。目の前には甲子郎がいて、稔の目をじっと見つめていた。稔が何かを言い出すと気付いたのか、口を挟むつもりはないらしい。それなら尚のこと、せっかく彼が聞いてくれるというのだから言わなければ。
稔は見つめてくる甲子郎の瞳をキッと睨みつけた。
「ここは、怖いんです。ひとりじゃ寂しいから、置いていかないで」
 言葉の最後は虚勢を張っていられなくて、掛け布団をギュッと握り締めていた。
その手の甲に、心地良い冷たさの体温が触れた。それは甲子郎の手で、彼は目を細めて微笑んでいた。
「置いていったりなんかしないよ」
 重ねた手のひらに力が入って、小さな白い指を握った彼の手に熱がともった。

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