仮初のつがい鳥
6−5
 目が覚めると白い天井が飛び込んできた。
視線を動かして、学校や病院にあるような蛍光灯が付いているだとか、天井にシミがあるとかないとかをしばらく観察した後、稔は首を巡らせた。
稔の眠っているベッドの右手に簡素なパイプ椅子があって、甲子郎がそこに座って本を読んでいた。
「甲子郎さん……」
普段どおりに喋ったつもりだったが、思いのほか掠れて弱々しい声で呼びかけると、それに気付いた甲子郎はすぐさま文庫本から視線を上げて、安心したように微笑を浮かべた。
立ち上がって本を座席に置き、屈んで稔の顔色を覗き込む。
「気分はどう?」
 寝ている間に乾いた瞳を潤すため、瞬きをするたびに視界が滲んだ。しばらくすると目尻をごく少量の涙が伝いそうになって、稔はそれを拭うのに手を動かしたが、甲子郎がわずか早くに稔の頬へ指を滑らせた。
親指で涙を拭い、熱を確かめるように額から頬へ手がなぞるのが稔には心地良く思えた。まるで父親や兄のような、慈しみの感じられる手の動きに、まどろみから覚めない身体は従順に彼の行動を享受している。
「点滴もしてもらったし、美味しいもの食べてゆっくりしてればちゃんと治るよ」
 稔を安心させるように言ったのか、それとも甲子郎が自身に言い聞かせたのか、髪を撫ぜられ再びまどろみの淵へ身を落とした彼女には分からないことだった。



 再び目が覚めた時は幾分か気分も晴れていて、同じ天井が見えたことから右手に設えられた椅子に目を向けた。
けれどそこに甲子郎の姿はなく、稔は言い知れぬ不安を抱えた。体を起こして薄暗い室内を見渡せば、白い壁の簡素な内装で、稔の眠る場所以外にベッドがないことから個室であることが知れる。
 窓外の空を見上げれば、沈み行く太陽とそれを追いかける夜のベールが織り成す黄昏色を呈していた。
 ベッドから足を下ろした所で、衝立に遮られた向こう側で扉の開閉音がした。甲子郎だろうかと思って待っていたら、衝立の向こうから現れたのはやはり思ったとおりの人物だった。
「あ、目が覚めたの」
良かった良かった、と安心したように彼は息をつく。稔はそんな彼の様子を見て、大なり小なり心配をかけたのだろうかと申し訳なく思った。
「もう大丈夫――」
 そう言おうとしたのに、甲子郎が早足で近づいてきて、稔が口を開くよりも早く、再びベッドに戻された。
目を見開いて甲子郎を凝視すると彼は稔の言いたいことが分かったのか、いささかの苦味が滲んだ笑顔を向けた。
「ちょっとは気分が良くなっただろうとは思うけどね、油断してはいけないよ。一日だけ、入院することになってるから、大人しく寝ること」
ベッドに稔を横たえると甲子郎は脇の椅子に再び納まった。
 どこへ行っていたのとか、何をしていたのとか、自分が倒れた時のこととか、聞きたいことはたくさんあるのに、喋るのがなんだか面倒だった。
稔がベッドでおとなしくしているのをしばらく観察した後、甲子郎はサイドボードに置いてあった本を再び手に取った。
実は稔が眠っている間に読み終わってしまったのだが、もう一度始めのページをめくる。何度も読み返す必要性はないが、暇つぶしにはなるのだからそれでいい。
 活字に没頭していく甲子郎を稔はじっと見ていた。
たっぷり睡眠をとった体は今の所これ以上の休息を欲していない。だから暇つぶしに甲子郎の顔を見ている。
 稔に見つめられて、彼は気付かないのだろうか。それほど本に集中しているのだろうか。
観察しているのではない、ただ見ているのだ。
甲子郎の顔はこの間、飽きるほど寝顔を見たのだからもういらない。
 今はただ穴が開くほど見つめれば、相手にその眼力が伝わるのかどうかを彼女なりに実験しているだけだ。
けれどそんな無意味で下らないことは早々に飽きがくる。十分も経たない内に稔は甲子郎から視線を逸らした。

 何度目か分からない寝返りを打った。
 ベッドに入ったはいいが全く眠れないのだから稔はゴロゴロと寝台を転げまわるだけで、寝返りを打つたびに甲子郎が顔を上げるのではと彼を見遣るが一切動く気配がない。
掛け布団のカバーが静まり返った室内に大きな音を立てるのだが、甲子郎は全く意識を向けてこない。
 ジッとこちらの様子を見られているのも気持ち悪いが、彼に他意はないにしろ蔑ろにされた状態なのは気持ちのいいものではない。
ようよう稔が拗ねたように唇を尖らせて甲子郎に声をかけようとした瞬間、軽いノック音の後、扉が再び開かれた。
 甲子郎は稔に背を向けて、扉へ向かっていった。


 運びこまれた味気ない夕食を平らげて、稔は手の平を合わせた。
「ごちそうさまでした」
深々と頭を下げるご丁寧な姿に甲子郎から思わず、といった忍び笑いが聞こえてくる。稔は目ざとく甲子郎を睨め付けたが言咎めまではしなかった。
 甲子郎は甲斐甲斐しく食器を片付けるとサイドボードに置かれた文庫本をズボンの後ろポケットにねじ込んだ。
「じゃあ、明日の朝に迎えに来るから、それまでは大人しく休んでおくこと。ここのスタッフの言うこと聞くんだよ」
 ぽかんと甲子郎を見上げる稔を見下ろして、左手を上げながら出口に向かった。
「え、ちょ……、待って!」
戸惑った稔に言えたのはこれだけだったが、甲子郎には十分届いた。彼は立ち止まると、振り返って稔の言葉を待った。彼女が何を問わんとするのか、全く分からないような微笑を浮かべていた。
「どこに、行く……の?」
いつも通り、「ですます」で言おうかと思ったのだが、滑舌が悪くて喋るのが億劫だった。少しの躊躇の後、稔は語尾のボリュームを落とした。甲子郎に気安く話しかけるのに違和感を感じるのだ。普段と違う自分を見せているようでなんだか恥ずかしい。
 俯きがちになる顔を一生懸命とどめて、稔は甲子郎を見た。彼は答えの明白な質問をされたように首を傾げて立っていた。
 何かおかしな質問をしたのだろうかと稔は不安になる。
「ホテルに帰るよ」
 あっさりと返ってきた言葉はいやに素っ気ないものだった。それとも稔にだけそう聞こえるだけだろうか。
「稔さんは一晩、病院のお世話になるんだよ。心配しなくても夜勤の看護師さんがいてるし、何かあったらナースコール押せばいいよ」
彼は安心させるように笑って、稔の枕元を指差したが、稔の不安は拭い去れない。
 独りで、知らない場所に置いていかれる。布団を我知らず握り締める。
病気で心までもが弱っているのだろうか。独りが怖いだなんて。
「じゃあ、また明日」
 今度は稔が引き止める勇気を出す前に、彼は病室から出て行ってしまった。
「あっ……」
一拍遅れて伸ばされた指先は、途中で力尽きて布団の上に落ちた。
 しんと静まり返る部屋に取り残された稔は、しばらく甲子郎の出て行った方を見つめていた。
首を巡らして見上げた窓は、とっぷりと暮れた夜闇であった。

 消灯の時間も過ぎた真っ暗な室内で、稔は泣いていた。寂しくて、心細くて。知らない場所に独りで置き去りにされた恐怖。
 たった一言、言えばすむことだったのに、プライドが邪魔をして、彼に弱味を吐露できなかった。
彼は稔がそんな思いを抱えているなど考えもしないだろう。しっかりしてるから、一人で残しても大丈夫だと思ったに違いない。
そんなのは買いかぶりだ。

 これほど朝が待ち遠しく感じたことはない。
稔は眠れぬ一夜を泣き濡れて明かした。

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