仮初のつがい鳥
6−2
 気持ちが悪いと呟いてしゃがみ込んだのは憶えている。その後は恥ずかしいことに甲子郎に抱え上げられてどこか屋根のある場所へ連れて行かれた。
そこで我慢の限界が来たのか、自分でも知らないうちに目を閉じてしまっていたようで、うっすらと意識が戻った時に眠っていたのだと気付いた。
「稔さん大丈夫?」
そんな声が聞こえた気がしたが、稔の身体は更なる睡眠を求めて再び夢の旅に出てしまった。額に乗せられた冷たい感触が心地良く、すぐ傍にある人の存在が安心感を生んでいた。

 次に目を開けた時は先ほどよりも意識がはっきりとしていて、視界に写る天井が車の中であると気付けるくらいだった。少し視線をずらした所に甲子郎の車窓を眺める顔があった。
彼は稔が目を覚ましたことにすぐさま気付くと額に手を乗せた。ひやりと心地良い冷たさに稔は目を細めて、その感触を享受した。
「まだ少し熱があるね」
もう少し寝ていなさいと言うように、甲子郎はだらんと座席からこぼれ落ちた稔の腕を取って腹部の上に乗せた。
 瞼を閉じればまた眠れるかもしれないが、先ほどよりも少し気分が落ち着いた稔はしばらく起きていることを選んだ。
「どこへ行くんですか?」
 車の狭苦しい後部座席で、甲子郎の膝を枕に斜めに眠っていた稔の身体はいささか疲労を訴えていた。起き上がってみると、眠り慣れない車の中でか頭の中がくらくらした。
 仰臥でいたときから車が走っていることは気付いていたのだが、起き上がって車窓を流れていく景色を確認して再び甲子郎に向き直った。
「これからの予定を全部切り上げて、家に帰ろうと思うんだ」
稔を真っ直ぐ見据えて、いつにない真顔の甲子郎を数度の瞬きをした後に稔は穴が開くほど凝視した。
凝視しながら寝起きの頭で甲子郎の発言について考えた。
 これからの予定ということは明日からまだまだ回る観光地のことであろうか、それを切り上げて家に帰るとは。その家は一体どこだ。ああそういえば結婚前に両家の親が張り切ってマンションの上階を購入していたなあと思い出す。
しかしなぜいきなり帰ると言い出したのだろうか。それは稔が風邪をひいたからに他ならない。結婚前からの忙しさで蓄積された疲労が昨日の卒倒事件により爆発して体調を崩したのだと甲子郎は思っているのだ。それは事実に違いないが、なにも旅行を全部キャンセルして帰ることもないだろう。帰った所で「家」は今まで暮らしていた「実家」ではなく「新居」であるので落ち着けたものじゃない。
それにまだ方々に渡す土産も買っていないではないか。
それに、それに……
「駄目です、帰れません。私は帰りたくありません」
 眉間を寄せて稔は甲子郎を睨んだ。
甲子郎は目を見開いて稔を見た後、眉間を寄せて険しい表情を作った。
「駄目だよ、稔さん。熱があるんだから。婚約してからずっと学業と平行して結婚の準備に忙しかっただろう?精神的ストレスもあったんだ。僕がちゃんとフォローしてあげてなかったのも悪いけど、そのまま旅行にまで来てしまって、昨日倒れたことで一気に疲れが出てしまったんだよ」
そんなことは改めて言われなくても百も承知である。
「だからしばらく実家に帰ってゆっくり休むといいよ」
甲子郎も新しい家では落ち着けないと気を遣っての発言か、実家での静養を言い出したのは稔も予想しなかった。確かに住み慣れない家よりも、口やかましい母親はいるが住み慣れた実家の方が落ち着きはするだろうが、だからと言ってすごすご帰るつもりは毛頭ない。
「嫌です、帰りません!」
 いつになく強気で強情な稔に甲子郎は眉根を寄せたまま困惑の色を浮かばせた。片手を甲子郎に向かって伸ばした稔の、その指先は小刻みに震えている。
稔はまた気分が悪くなり出したのを下唇を噛んで抑え込んだのだが、その瞬間、車が窪みを通過したのか大きく車体が揺れた。
 バランスを崩した稔は、伸ばした手でそのまま甲子郎の腕を掴みにかかり、甲子郎も傾いだ稔の体を咄嗟に受け止めた。
「長万部と羊蹄山と小樽と函館と、その他諸々を諦められません!!」
甲子郎に近づいた勢いのままに、稔は声を張り上げた。その声と重なって、江副のお抱え運転手が陳謝の言葉を発したが、後部座席の二人には全く聞こえていなかった。
 甲子郎は呆気に取られてしばらく稔を見ていたし、稔は甲子郎の出方を待っているので車内は沈黙が落ちた。
 もちろん江副の優秀なお抱え運転手も、空気を読んで口は開かなかった。

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