仮初のつがい鳥
6−1
 一面、紫色の絨毯。息を吸い込めば体を駆け抜ける心安らかな香り。
本来ならばリラクゼーションの塊であるはずの花畑であるが、今はその香りがきつく鼻をついた。どこか思考がぼんやりとして、照りつける太陽が暑かった。
 視界は途切れ途切れにぼやけるし、のどが痛くて鼻かぜでもひいたようだ。さっきからこっそり鼻水を啜っていることを後ろの甲子郎は気付いているだろうか。いや、気付かせるわけにはいかない。稔が風邪をひいたと甲子郎が知ったら、きっと余計な気遣いと余計な説教をされるに決まっている。
 ラベンダー畑の間を縫って歩き、ラベンダーの花を見てまわるに見せかけて稔は甲子郎の様子を窺った。彼は稔の後を歩きながら興味のなさそうに花畑を眺めていた。
「夏の北海道といえばラベンダー畑だもの……」
しゃがみ込んでラベンダーの一株に愚痴をこぼしてみた。一緒にいる人間がさも面白くなさそうにしているとこっちまで気分が落ちてしまう。まるでこの場所を選んだ稔に非があるようではないか。

 膝を抱え込んでうずくまっている稔の背中には、夏の日差しが容赦なく照りつける。北海道といえども温暖化の一途を辿る地球に降り注ぐ太陽光線はどれも等しく熱いものなのか、じりじりと熱光線が稔の首筋を焼いていく。暑くて髪を一まとめにしていたが、あらわになった肌が焼けるのは予定外だ。こんなことなら帽子か日傘を持ってくるのだった、と稔は考えた。
「大丈夫?稔さん」
 振り返って見上げると甲子郎が稔の背後に立っていた。
太陽の光が彼の背に遮られ、逆光で甲子郎の顔は見えなかった。
「何が?」
表情の分からない甲子郎に稔はとぼけた。稔の体調が芳しくないのをすでに気付いているようだったが、どの程度の具合の悪さかまでは把握していないはず。
それ以上悟られまいと、稔は気丈に顎を上げた。
立ち上がって甲子郎の影から出て行こうとすると、彼は稔の腕を取って引き止めた。
「熱があるじゃないか」
間近に迫った甲子郎の表情は険しかった。掴まれた腕から稔の常にはない高い体温が分かったのだろう。稔からは逆に甲子郎の手がひんやりと心地良く感じたのだから。
 稔は甲子郎の咎めるような言葉にうんざりしながらも、彼が作る陰の中で一息ついた。彼は意図して稔から日光を遮っているのだ。その証拠に稔が甲子郎の手を振り払って歩き出した今も、見上げた彼の顔は逆光で窺えない。
隣に付いて、稔に日陰を作ってくれている。その気遣いはありがたいものだが、彼のさり気なくも心優しい好意を素直に受けるには、彼はまだ遠い存在だった。
信頼のない相手に優しくしてもらっても居心地が悪いだけ。
 稔はじわじわと体内を降りてくる眠気に抗うために歩いた。重くだるい瞼を本能の命じるままに閉じてしまえば、意識も一緒に閉じてしまうのだ。双眸を見開いて花畑を凝視する、けれど瞳には何も映していない。

「稔さん」
 眉間に皺を寄せて不快な表情の稔の体調は火を見るよりも明らかである。けれど彼女は一つ所に落ち着かず、甲子郎の傍を故意に離れていこうとする。
紫の花畑を観賞しているわけでもないのに、花々の間を甲子郎を避けるように進んでいく。
 甲子郎も眉間に皺を寄せた。人に全く信用されていないのは不愉快だった。
けれど彼がここで怒っても詮無いことである。
稔は体調不良で、その精神状態も常とは違う。甲子郎が気遣ってやらねばならないのは当然のことだ。
「稔さん」
何度か彼女を呼んだが、聞こえているのかいないのか、一度も振り向こうとしない。前だけを向いてふらふらと進んでいく。
足取りが、やや覚束ないのは気になっていた。倒れないだろうかと心配だったが、そこまで彼女の体調が悪いとは思わなかったのだ。
 結局、倒れることはなかったが、稔が悪心を訴えうずくまったので、甲子郎は彼女を抱えて休憩所まで走る羽目になった。

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