仮初のつがい鳥
5−13
 手を振り見送る小母さんに、稔と甲子郎は何度か会釈をして送迎車に乗り込んだ。車に乗り込んだ後も稔は後部座席からずっと手を振っていた。

「稔さんのおかげで良いコネクションができたよ、ありがとう」
 後部座席のシートに身を沈めて甲子郎が呟いた。まだ手を振っていた稔は疑問符を浮かべて甲子郎へ向き直り、ようやくシートへ座った。
「何のことですか?」
心当たりの全くない稔はただ首をひねるばかりで、甲子郎の機嫌が少しばかり良いことも関連性があることとは考えもつかなかった。
「あれ、知らないで話してたの?」
 本当に何も分からない様子の稔に今度は甲子郎が怪訝に眉を寄せた。
甲子郎の言葉に稔が首肯すると、何か感慨深げに稔のことをじっと見つめた。稔は居心地が悪くて身じろぎをして、甲子郎が口を開くのを待った。
「あのご夫人、誰か知らない?」
「あの小母様?存じません」
 有名な誰かなのだろうか、しかしながら生憎と稔の記憶には夫人の情報は一つも入っていない。甲子郎は稔の答えを聞くと、口角を上げてからかうような笑みを浮かべた。
「佐想静子さんといえば分かるかな?佐想グループ会長夫人の」
 静子とはまた名前にそぐわない性質の小母さんだったと思ったが、姓を聞いて仰天した。
「佐想!?」
次いで青ざめた稔に甲子郎は笑みを透いたまま眉間に皺を寄せ、咎め口調になった。
「僕と夫婦の間は完璧な妻でいてくれるんでしょう?政財界でも名の通った夫人方の顔を知らないでは僕が困るんだよ?稔さん、ああいう所が嫌いでも要所は憶えておいてくれなくてはね」

 隣で甲子郎が云々と喋っているが、稔はその十分の一も聞いてはいなかった。
 あの小母さんが佐想の会長夫人。では話題に上った結婚適齢期の孫息子というのはもしかすると、稔に見合い写真を送ってきた御曹司と同一人物かもしれない。ということは、一緒にいたお嫁さんの片方は、佐想の御曹司の母親。
佐想に御曹司が何人いるのかは知らないが、性格に難のありそうな結婚適齢期の孫などそう何人もいるはずはないだろう。
 もちろん母親もいるのだから、孫の縁談事情は把握済みであろうし、佐想夫人方が余所の会社とはいえ甲子郎と稔の実家のように、そこそこ名の通った家柄の縁組を知らぬわけはない。甲子郎と夫人のやり取りからしても、江副の息子だと知った風であった。
 とすると、今まで佐想会長夫人および佐想社長夫人方と楽しく語らいあっていたが、もしかしたら向こうは可愛い孫(もしくは息子)の縁談を蹴ったいけ好かない小娘だと思っていたのかもしれない。稔は真っ青になった。
 佐想夫人の不興を買うということはもしかすると佐想との取引にも影響するかもしれない。そうなると実家の会社はもちろん、甲子郎の会社も甲子郎の実家の会社も被害を被るのかもしれない。
稔は一気に苦悩の表情になって、今にも泣きそうな顔で甲子郎を見上げた。
「大丈夫だよ」
 今まで話半分も聞いてなかったし視界の端にも入れてなかったのに、甲子郎のほうはちゃんと稔の表情の変化を見てくれていた。
そして労わるように頭に手を置いてゆっくりと撫でた。
「会長夫人も社長夫人も公正な方だよ。たかが孫の縁談一つくらいで目くじら立てないし、稔さんと同じく膨大な縁談のなかの一つだと思うよ」
だから気にするな。そんな声が聞こえた気がした。
「むしろ僕らのことはえらく気に入ってくださってたみたいだけどね、目の保養だって」
甲子郎の苦笑する声が漏れた。
 稔は少し安堵し、座席にもたれた。よく考えればあの小母さんの人となりに、公私混同した陰湿で理不尽な嫌がらせは結びつかなかった。
 頭を撫でられ閉じていた目を開くと、甲子郎と目が合った。彼は微笑を漏らし、稔の頭に置いた手を滑らせて頬に触れた。
近づく顔に稔は首をすくめて体を硬くしたが、予想したことは起こらなかった。
「帰ったら、憶えておいて欲しい人のリストを作っておくよ」
 離れていった甲子郎の顔は綺麗に微笑んでいて、それはいっそ清々しいほどに意地の悪い顔だった。
 今まで渋っていた社交に力を入れなくてはならなくなり、稔は泣きたい気分で車窓からキタキツネの姿を必死で探した。

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