仮初のつがい鳥
5−10
 首筋に口付けた途端に、腕の中の稔の体がぎこちなく固まって甲子郎は意地悪く口角を上げた。
そんな表情が稔には見えないと分かってて、彼は更に稔の体を抱きこんで長い髪に鼻を埋めた。洗いざらしの髪から洗髪料の清々しい香りがした。
「江副甲子郎さん、ふざけるのもいい加減にして下さい」
もっとパニックを起こして、扇情的にヤメテと懇願してくるのかと思っていたら、なにやら意外と冷静な言葉が返ってきた。
しかも硬質な物言いに、彼女が怒っているのだと甲子郎は思った。
だけれどそう思ったのは一瞬だけで、掴んだ腕がかすかに震えているのに気付いたから、それは虚勢だと思い直した。
 そこで殊勝に謝って解放してやれる優しさと素直さがあったなら、甲子郎は甲子郎として今ここに存在しない。
従って更なる追い討ちをかけるように、震える稔の手をとる。
「僕らは夫婦だよ?」
耳元で囁いて、手の平にわざと音が鳴るようにキスをした。ふるふると肩がわなないて、手を振り払われた。
「夫婦って……そ、そういうことじゃなくて!わた……私は仮にも高校生よ?」
 抱き込まれていた腕から体を起こし、怒りに任せて稔は甲子郎の胸倉を掴んで怒鳴り散らした。
お前は年端も行かないいたいけな少女に手を出すのかと言外に言ったつもりなのだが、顔を付き合わせた先のいい歳をした大人は年齢に似合わないきょとんとした表情で、二三度瞬きを繰り返した。
「避妊はするよ?」
ぷちん。
どこかで何かが切れる音がした。かもしれない。
「私に、さわるな!!!」
 火事場の馬鹿力というやつか、稔は渾身の力で甲子郎を押し退けた。
ついでにその憎たらしい頬に一発平手を食らわして、稔はぷりぷりと怒りもあらわに再び寝室へと消えて行った。
 再び静かになった室内で、声を押し殺した低い笑い声が響く。


 明るい部屋から戻った寝室は、出てきた時よりも暗く感じられた。だがそれも数分のことで、しばらくの後目は暗闇に慣れていく。
室内の輪郭を掴んだ稔は、ベッドへ足を運び腰を下ろす。
甲子郎への怒りが冷めやらぬ胸の内はかっかと熱く煮えたぎっていて、まだ当分は就寝できそうにもない。
天井を見上げてそのままベッドに倒れこむと、スプリングが跳ねて稔の体も数回浮き沈んだ。
「全く……」
 稔は溜息混じりに呟いた。
さっきは突然の出来事に、かなり動揺した。まさか甲子郎があんな冗談を言ってくるとは思いもしなかったからだ。
もちろんこの婚姻は二人の間に交わされた契約なのだから、本当の夫婦になる意味はない。
甲子郎もそのことは理解しているはずだった。
稔も彼とそういう関係になるつもりも、なりたいとも思わない。
彼はこれから数年の同居人に過ぎないのだから。
だから、彼があんな風に自分をからかうだなんて思ってもみなくて、びっくりしたし怖かった。そう、はじめのうちは甲子郎が怖かったのだ。
抗っても力ではかなわない。彼がそうしようと思えば稔には抵抗も無駄に終わるのだ。
 しかし彼の表情は見えなかったが、まとう空気がどこか嘲弄を含んでいたように思ったのだ。
それまで恐怖におののいていた稔だったが、かっと怒りが支配してそれでも理性を働かせてあくまでも甲子郎の行動を彼の良心に訴えた。
お前は年端も行かない高校生に手を出すのか、と。
それなのに彼はとんちんかんな回答を出してくるし。全く話が噛み合わない。
本気で実行する気もないのに軽々しい言動の数々に、稔の怒りはしばらく冷めそうにもない。

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