仮初のつがい鳥 |
5−9 |
甲子郎は気安く稔の頭を撫でるが、稔は子供扱いされているようでいささか不愉快だった。それに、家族や恋人ほども親しくない他人に、こうも気安く頭を撫でられるのは居心地が悪いことこの上ない。 だから稔は頭に手を遣り、甲子郎の腕をやんわりと払い除けた。 そして話を逸らすように、今まで俯いていた顔を上げ甲子郎を振り仰いだ。 「『あんじょうおきばりやす』って、どういう意味ですか?」 とっさに出してきた話題だが、風呂場で気絶する前に聞いて意味が分からず甲子郎に訊ねようと思っていたことだ。ナイスタイミングで思い出した自分の思考回路を褒めてあげたい。 しかし当然、甲子郎は突然のことに言葉が続かず、二三度瞬きを繰り返すとようやく思案顔で宙を仰いだ。 「それ、もしかして温泉で会った七十歳位の関西弁のおばさんに言われた?」 どうしてそれを甲子郎が知っているのか、稔は不思議に思ったが黙って頷いた。 「ああ、やっぱり。稔さんが倒れた時に傍に居たからって、人を呼びに走ってくれたんだよ。明日一緒にご挨拶に行こうね」 あんな場所で倒れたのだから、誰かの世話になっていなくてはおかしいのだが、稔としては「気付いたらベッドだった」という状況だったのですっかり失念していた。稔は甲子郎の言葉に神妙に頷く。 「それで、それって関西弁なんですか?」 気を取り直して再び訊ねてみる。 「私は方言とかあまりよく知らないので、どう返事をして良いものか困りまして、ただ愛想笑いだけしておいたんですけど」 「それでいいと思うよ」 意味が分からなくても、話を合わせられるのなら適当に合わせておけばいい。笑えば大抵の事は切り抜けられると甲子郎は目元を緩ませて言った。 「直訳っていうと同じ日本語だからおかしな感じだけど、まあ、『上手い具合に頑張りなさい』って意味かな……」 僕もそんなに意味を把握してるわけじゃないけど、と珍しく自信なさそうに口ごもった。 しかし稔には何をどう上手い具合に頑張るのかさっぱり分からない。 それが表情にありありと出ていたのか、稔の顔を見た甲子郎がわずかに口の端を吊り上げた。 「よく分かりません。どうして何を頑張るんですか?甲子郎さんは分かります?」 分かるのならばもっと分かりやすいように教えてくれと言わんばかりに稔は甲子郎に詰め寄った。 無邪気な好奇心が稔の瞳の中にきらきら輝く。甲子郎はそんな純粋さにただ苦く笑うしかない。 けれど次の瞬間、膝の上に置かれていた稔の手をとって、後ろに押した。 稔は突然のことに抗うことができず、勢いあまって後ろに転がってしまった。幸いにも背中はソファの弾力に守られて、さほど痛くはしなかったが、次いで圧し掛かってきた甲子郎の重さの方が衝撃としては強かった。 「なっ……ぐぇ……」 状況を把握する暇も与えられず、目を開けるとすぐそこに、正に目と鼻の先に甲子郎の顔があった。 喋るだけで唇が触れ合いそうで、稔は怒鳴ろうとした声を寸でで押しとどめた。 「分かった?」 不敵な笑みを浮かべて甲子郎が囁いた。温い吐息が頬に触れて、稔は背筋が震えた。 甲子郎が瞬きをするたびに、長い彼の睫毛が風を起こしそうだ。 そんな事は考えられるくせに、甲子郎の問いには全く理解が示せない。 目の前の男を押し退けたいが、手首はがっちりソファに縫いとめられているし、体もがっちり圧し掛かられていては身をよじることもままならない。 何が「分かった」のか全然分からないが、とりあえずうなずいておけば解放されるかもしれないと、稔は必死に首を振った。 すると目の前の甲子郎は殊更笑みを深めて、再度囁くように言った。 「うそつき」 そして近づく唇。 稔はもうだめだ!と口を引き結んで目を瞑った。 「ぷ……」 けれどどれだけ経っても唇の感触はなくて、代わりに堪え切れずに出た吐息が顔にかかった。 恐る恐る目を開けると、目の前の甲子郎は眉根を寄せて笑いをこらえていた。 「んなっっ!!!」 甲子郎は稔の拘束を解くと、ソファの肘掛にもたれてうずくまった。 稔は解放されるなり飛び起きて、甲子郎にそれなりの報復を与えてやろうと手を振り上げたが、甲子郎は肩を揺らしながら稔の憤慨を手を挙げて制止する。 笑い終わるまで待ってやるかと制止を振り切って甲子郎に飛び掛ると、またもや手首を掴まれて、彼の腕の中に抱き込まれた。 「きゃー!!!」 「学習しないね、稔さん」 まだ喉の奥で笑いながら、稔の白い首筋に口付けた。 |
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