仮初のつがい鳥 |
5−8 |
再び目を覚ますと、部屋の中は真っ暗で稔は一人ぼっちだった。 カーテンの隙間から月明かりが射して部屋の中を明確に浮かび上がらせたが、どれだけ目を凝らしても隣のベッドも近くの椅子ももぬけの殻だった。 ぼんやりと寝起きの脳みそでは上手く思考が回転しないが、眠りに着く前のかすかな記憶で、稔は大浴場で倒れたのだと理解する。 次いで、髪を滑る指の感触を思い出し、頭に手を遣った。 居るはずの連れはどこへ行ったのだろうか。 寂しさと不安に稔はベッドを抜け出して、壁伝いに隣室へと続く扉を探し当てた。 湯あたりを起こして倒れた時は、まだ月が出始めで青白い色をしていたが、今はもう眩いばかりの黄金色で夜のしじまを照らしている。 深夜には届かない時刻であろうが、それでも夕食を摂るには遅い時間だろう。 そっとドアノブをまわすと、扉の隙間から向こうの部屋の明かりが差し込む。 暗闇に慣れた目には強すぎる光刺激に、思わず眉間を寄せたがそれもすぐに慣れた。二、三度瞬きをして隣室に入ると、窓際にしつらえたソファに甲子郎が背を向けて座っていた。 前に置かれたテレビには電源が入っていなくて、俯く甲子郎は読書でもしているらしい。 稔の後ろで開けた扉の蝶番が細い音を立てた。 するとその小さな音に反応して、甲子郎が振り返る。 「稔さん」 「どちら様でしょう」 稔の言葉に空気が静まる。 言った瞬間に『どちら様』は甲子郎だと気付いた。気付いたがそれを訂正するタイミングを掴めず、口を開く勇気が出ない。 前髪を下ろした甲子郎はきょとんとした様子で稔を見つめていた。 よって二人とも互いを見つめたまま微動だにしない。 しばらくにらみ合った後、口火を切ったのは甲子郎だった。突然相好を崩して笑い出したのだ。はははははとおかしそうに、それも腹を抱えて笑うので、稔はびっくりしてそのまま棒立ちになっていた。 「こ……これなら、誰か分かる?」 まだ整わない息で肩を震わせながら、甲子郎は自分の前髪を掻き上げた。 そこまで笑わなくても良いだろうにと、稔もさすがにムッとなってわずかに眉間を寄せた。確かに今のは失言だった。この部屋に居るのは甲子郎のほかにいないはずなのに、普段の彼の格好とあまりにも印象が違ったため思わず口走ってしまったのだ。 「失礼しました……」 恥ずかしさから彼と目を合わせていられなくて、稔は瞳を伏せて顔を逸らした。 「そんなに普段と違うかな」 誰に問うでもなく、甲子郎が自分の前髪を一筋引っ張りぽつりとこぼした。 その様子はそう言われるのが不本意であるように見える。他の誰かにも言われたことがあるのだろうか、稔一人の反応でこぼれた独白ではなさそうだ。 大方付き合った女性にでも言われたのだろうが。 「髪を下ろすと好青年に見えます」 なんとなく、嫌味を言ってやりたくなった。散々笑われた仕返しだ。 「それはいつもの僕が悪人に見えるってこと……?」 「さあ、どうでしょう」 悪人までとは言わないが、いつもの甲子郎は仕立ての良いスーツをきっちり着こなし、前髪を上げて涼やかな目元が印象的だが、今の甲子郎はきつい印象の目元が前髪に隠れ、ラフな格好と相まって実年齢よりも少し幼く見えた。 ムッと不満げに眉根を寄せる仕草もむしろ幼く見えて、まるでどこにでもいる育ちの良い大学生のようだった。 けれど大学生に見えようとも彼は大人であるので、いつまでも機嫌を損ねていたりはしない。そもそも稔の言に反応したのだって場の雰囲気だ。 「稔さん」 すぐに表情を切り替えて、稔を手招きした。 手に持っていた文庫本をサイドテーブルに置いて、自分の隣に稔が座るよう促した。ソファに座った稔の顔を覗き込んで、顔色を伺う。 「もう、気分は楽になった?」 無言で頷く稔に、甲子郎は満足げに笑いかけた。 「心配したよ」 そう言って頭を撫でると稔は居心地悪そうに身じろぎする。やっぱり覚醒時はまだまだ懐いてくれていない。 「ご心配をお掛けしまして申し訳ありません」 固い謝辞に苦笑がもれる。まるで機械仕掛けの人形が喋っているようだ。 稔が風呂場からなかなか出てこなくて不審に思っていた矢先、倒れたと連絡を受けて肝を冷やした。利倉氏から預かっているお嬢さんだとしても、稔は今現在自分の妻で、昔から知っている妹のようなものだ。心配にならない方がおかしいだろう。ベッドに眠る稔を落ち着けようと、髪を撫でて、傍に居た。 甲子郎は稔のことを結構心配していたのだが、当の彼女は心のこもらない謝罪一つ。なんとなく、面白くないと甲子郎は溜息をついた。 |
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