仮初のつがい鳥
5−7
 稔と小母さんたちは、それから色々話をした。
 関西弁なのは一番年嵩の小母さんだけで、あとの二人は関東弁を喋った。
もうお婆さんと言っても差し支えない歳のようだが、本人がはつらつとしていてそのように呼ぶのが戸惑われるくらいエネルギッシュなご婦人だった。
関東弁の小母さん二人は年嵩の小母さんのお嫁さんらしく、よく連れ立っては旅行に来るのだとか。
 稔がこれからの旅程を話すと、小母さんたちはこぞって美味しい店や観光スポットを各町ごとに挙げていった。全部憶え切れはしないが、これからの参考にしようと稔は懸命に記憶力を活動させて聞いていた。


 風呂場に時計があるものかと見回してみたが、それらしきものが見つからず、稔は落ち着かなかった。ゆったりくつろぐべき空間で、時間を気にさせるようなものは置かないだろうと、考えてみればすぐに思い当たった。
けれど稔には約束の一時間がある。
おおよそではあるが、そろそろ一時間になるのではないだろうか。甲子郎のあの様子だと、時間を守らなければうるさそうだ。
待ち合わせ時間より早いに越したことはない。稔は慌てて小母さんトリオに声をかけた。
「あの、お話の途中なのですが、そろそろ出ないと夫が待っていると思うので」
 甲子郎との時間もあるが、稔は今にものぼせそうだった。
「あらあら、こちらこそ長々とお喋りに付き合わせてしまってごめんなさいね」
まったくだ。小母さんトリオは稔よりも早く湯船に浸かっていたはずなのだが、茹だるような様子はなく、まだまだ喋り足りないと言った風だ。
「お姉さん、今晩は旦那さんに優しゅうしてもらいな」
 稔が湯船から出る間際、年嵩の小母さんが笑みを深くして言った。
稔は良く分からなくて、振り返りはしたが曖昧に会釈しただけだった。
「あんじょう、おきばりやす〜〜」
更に言葉がかかったが、稔は関西に疎いので、どこの方言かもそれがどういう意味なのかもどういう含みがあるのかも皆目検討もつかなかった。
 きっと物知りの甲子郎なら分かるかもしれない、と思ってタイルの上を歩いていた。
 後で考えれば、だいぶん頭がふわふわしてたようだ。
自分の視界が上下反転したことに気付くよりも、後ろで小母さんたちの叫び声が聞こえるのが早かった。
痛いと思うよりも先に、思考が閉ざされていた。



「どうも、ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございます」
 遠くで甲子郎の声が聞こえる。初めは誰の声だったかわからなくて、すぐに顔が出てきた。なぜ彼がここに居るのか疑問に思って、すぐに昨日までの出来事を思い出した。徐々に記憶が近づいて、待ち合わせに間に合ったと思った。
しかし自分が横になっていることに気付いてうっすら目を明けた。
丁度、甲子郎の影が近づいてくる所で、稔の目が開いていることに気付いたようだった。
「稔さん」
 名前を呼ばれてピクリとまぶたが動いた。
まだ頭がふらふらしていて、視界もはっきりしない。動くのが億劫で、稔は横になったまま低い視線で、部屋の中をぼーっと見ていた。
微動だにしない稔の傍に、甲子郎が腰掛ける気配がした。視線を動かしてみたが、稔の視野よりも外にいるらしく、その姿は座位の膝しか写らない。
 ふと、稔の洗いざらしの濡れ髪に、甲子郎が指を滑らせてきた。
触れられる感覚があったが、嫌悪感は感じなかった。
それよりも、ゆっくりゆっくりと頭を撫でられて、稔は再びゆるゆるとまぶたを閉じかけた。
「もう少し、寝てて良いよ」
うつらうつらと開いては閉じるまぶたに、稔の眠気を感じ取って甲子郎は囁いた。稔は言葉に甘えて自分の欲求に正直に、潔くまぶたを閉じた。
頭を撫でることに安心感を覚えたか、稔の呼吸が段々と深くなり再び眠ってしまったことを物語る。
 しっとりとした黒髪が枕に広がっている。思わず触りたくなるような、綺麗な長い髪だと思う。
甲子郎は稔が眠った後もしばらく、頭を撫で続けた。

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