仮初のつがい鳥
5−3
 とうとう口も利かなくなった稔の背中に溜息をひとつ吐いて、甲子郎は自分の腕時計を見た。時針はまだ昼前を示しており、これといって腹も空かない。
本来ならば二人で炭鉱跡地を見物に行く予定だったのだが、稔があれでは甲子郎一人で行くほかあるまい。
「炭鉱、見に行かないの?」
答えは分かりきっていたけれど、聞かないなら聞かないでまた機嫌を損ねそうだったから声を掛ける。案の定、返ってこない返事に甲子郎は踵を返した。

 後ろで扉が閉まる音がしたが稔は振り返らずに窓辺に居た。甲子郎は怒ったのだろうか、いや呆れたのだろう。
 しかし稔を怒らせたのは甲子郎で、怒った事項については自分が正当であるのだが、口も利かないような怒り方は自分でも子供っぽいと思う。だけど口を開けば甲子郎の事を口汚く罵ってしまいそうで、それでも言い足りなくて泣いてしまいそうで、稔には彼を視界に入れないことで我慢していた。
 衝動に身を任せれば左手の指輪を引き抜いて窓の外へ放り投げてやりたいくらいなのだが、そんな事をすれば後で探しにいくはめになるのは分かりきっているのでぐっとこらえる。
 静まり返った部屋の中は当然ながら稔以外の人間はおらず、振り返って誰も居ない室内に寂しさを感じた。
大きな屋敷に使用人を多数抱える実家で暮らしていただけに、人気のない部屋には慣れていない。急に怖気を感じて稔は凍りつく。
すると違う部屋からガタンと物音が聞こえてきて飛び上がった。
きっと机の端に寄せていた本か、それとも携帯電話が落ちたのだ。そう思い込もうとするけれど、不安は払拭されない。
 稔はサイドボードの上に置かれていた部屋のキーと椅子の背に掛けていた上着を掴むと、一目散に部屋を逃げ出した。


 暗いトンネルのような炭鉱跡は地上とは気温が格段に違った。吐けば吐息が白くけぶり、無風であるのに遠くで風の音が聞こえた。
入り口以外に係員はおらず、お世辞にも明るいとは言いがたい証明の下で、炭坑夫を模した人形がトロッコに黒いダイヤを積み込んでいる。リアルな人形が気持ち悪くて、きっと女の子なら嫌がるだろう観光地を今回の旅行日程に組み込んだのは他でもない稔だ。
炭坑夫人形を凝視していた甲子郎は白い息を吐き出して、再び歩き出した。
 しかし後ろから聞こえてきた硬い足音に立ち止まって、その人が来るのを待つ。さすが廃れた観光地で、客の少ないことに財政難を納得させられる。閑散とした地上に併設された小規模遊園地も、すでに閉園したと間違うほどであった。ホテルも同様。だから自分以外にここへ来る人物を、甲子郎は一人しか思い当たらなかった。
 後から追いかけてくる可能性はごく僅かだと思っていた。
稔は頑固で、一度へそを曲げたらなだめるのに苦労していたと、彼女の歳の離れた異母兄が言っていた。だから自分がどこへ行くのか同伴者への義務程度に告げたつもりで。

 暗がりから姿を明らかにした稔は甲子郎の姿を見つけて足を止めた。今まで聞こえていた硬い足音が止む。
白い吐息が速い間隔で吐き出されており、甲子郎は彼女が走ってきたのだと推測した。遠目から見ても少し頬が高潮していて、眉間に深く皺が刻まれているけれど怒っているようにも見えず。
 肩で息をしながら稔は再び甲子郎に近づいてくる。
「無視して悪かったとか、思ってるわけじゃないんですからね。悪いのは、全部甲子郎さんなんですからね」
近づきながら彼女は言い募る。段々と顔がはっきり視認できてきて、鼻と目が少し赤いようにも見えた。彼女が泣く理由を甲子郎は推し量ることができず、首をかしげた。
「何か泣いてた?」
「ちっ……違います!泣いてなんかいません!泣く理由がありません!」
「それはそうだ」
慌てふためき噛み付きそうな勢いで反論する様は肯定しているようなものだと彼女は気付かないのか。けれど甲子郎は話を合わせて黙っておくことにした。
「僕を追いかけてきたの?」
「違います」
今度はぴしゃりと断言されて甲子郎は肩をすくめる。わざわざ走って?とは言わない。
「……独りじゃ、甲子郎さんが寂しいと思ったんです。こんな暗くて気味悪いところ、一人でいるのは嫌でしょう?」
 細い顎をくいっと持ち上げて稔は甲子郎の隣に立った。
ああ、寂しくなったのか。甲子郎は稔の心の内に気付いて目を細める。
「稔さんが居なくて寂しいよ」
子供に合わせるのは大人の務め。甲子郎は頬を緩ませて稔の頭を撫でた。
稔は嫌がりもせずに頭を撫でられ、甲子郎の笑顔に顔をほころばせた。

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