仮初のつがい鳥
5−2
 ひょいひょいと青い芝生のゲレンデを跳びまわっていたキツネはもういない。とうの前にどこかへ行ってしまった。
「いつまで怒ってるの。北海道に行きたいって言ったのは稔さんでしょう、せっかく来たんだし外に出ようよ」
 旅行のパンフレットを広げながら、メロンを食べるのだとはしゃいでいたのは確かに稔だが、今はちょっとそんな気は起きなかった。
怒っていないと言いながらも根は深いらしい。
「……たかがキスひとつで、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
 頑なな稔の態度に、とうとう甲子郎が我慢できずに不満をこぼす。もうお手上げだと言わんばかりに額を押さえた。
しかし稔はカチンとなって目を見開いた。窓辺に座っていたが、勢いよく立ち上がって甲子郎に詰め寄った。
「甲子郎さんからしてみれば、”たかがキスのひとつ”でしょうよ。今までたくさんしてきた中のひとつに過ぎないでしょうね。でもね、でもね……」
唇がわなないて次の言葉が思うように出てこなかったが、稔は一瞬息を止めて無理矢理呼吸を整えた。頭を振り上げて、視線の先の甲子郎を出来る限りの感情を込めて睨みつける。
「私のは、ファーストキスだったんだからぁ……」
 言い切った途端に涙があふれてきて、言葉尻が揺れた。
甲子郎なんかに弱味を見せたくないと思ったが、感情を抑えることが出来なくて、目の前にある胸に拳を打ちつけながら、声を上げてわんわん泣いた。
「……ごめん」
 甲子郎は自分の胸を打つ稔を、簡潔な謝罪の言葉と共に抱き締めた。
ずっと張り詰めていた緊張のせいで、きっと感情の昂りが激しいのだ。
 甲子郎がそれ以上何も言わなかったので、稔は更に声を上げて泣いた。もっと謝罪の言葉はないのかと罵ってやりたかったのだが、喉は嗚咽しか出てこない。ギュッと抱き締められていつもなら全力で抗うところだったが、涙が止め処なく出てきて顔を濡らすので、目の前の甲子郎のシャツは涙を吸い取るのに都合が良かった。
だから大人しく彼に抱き込まれて、彼の胸に顔をうずめた。

 散々泣いて、涙も出尽くしたようで、稔の嗚咽もやんできた。鼻水をすする小さな音が断続的に続き、甲子郎は腕の拘束を少し緩めた。
 鼻をすすりながら押し付けていた顔を少し離すと、涙でぐしゃぐしゃになった甲子郎のシャツが目の前に見えて、稔はしまったと後悔する。夢中で泣きすぎて自分のことしか考えていなかったかもしれない。その場の自分の感情を優先してしまって、甲子郎に縋って泣くのが心地よくて、彼のシャツを大変なことにしてしまった。
 稔からすれば甲子郎のしたことの方がよっぽど酷いことだけれど、それはそれこれはこれ、次元の違う話。
だからすぐさま謝ろうと思って顔を上げた。
「んぐっ……っっっ!!」
だがしかし、降ってきた甲子郎のキスに、言葉が出せなかった。
 一瞬にして謝る気はなくなり、憤怒でわなないた平手を思いっきり甲子郎の頬に打ち込んでやった。
今まで生きてきて、誰かをこんなに力いっぱい殴るのは初めての事だ。

 片頬を押さえる甲子郎に、稔は目も合わせたくないと背を向ける。
窓辺の向こうのキツネは、巣穴へ戻ったのだろうか。
「ごめん」
「知らない」
「出来心なんです」
「知らない」
 今度の謝罪は、しばらく聞き入れてもらえそうにない。

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