仮初のつがい鳥
挿話
 その日、自家用送迎車は出払っており、晃則は甲子郎とともに徒歩で家まで帰った。家の敷地前まで到着した時、家屋の二階の窓から晃則たちの帰宅を発見した稔が、待ちきれず門扉を一人でくぐって出迎えようとしてくれた。
 その後ろを利倉家の家令が大きなおなかを突き出して慌てて追いかけてくるのが見えた。家から十メートルも走っていないのにもう息切れている。
 稔が自宅の門扉から小さな歩幅で走って来る、その横を界隈では見ない白のセダンが静かに通り過ぎた。
 晃則は駆け寄ってくる稔に夢中で、周りが見えていなかったのだ。
 突然けたたましく車の扉の開閉音がしたかと思うと、見知らぬ大柄な男が小さな稔の背後に回り、後ろから抱き上げると脇に抱えて走り去ろうとした。
 誘拐!咄嗟にそう思った。
「みぃ!」
 晃則は心臓が凍りつく思いで声の限り叫んだ。叫んだだけで、身体は全く動けなかった。
 しかし晃則が叫ぶよりも早いか、隣に並んでいた甲子郎が驚く速さで誘拐犯を追いかけたのだ。
 もともと彼らと誘拐犯および稔の位置は四十メートルも離れていなかった。すぐさま追いかけた甲子郎は、手に持っていた学生鞄を振りかぶって、投げた。
 辞書や教科書など重い書籍の詰まった、これまた頑丈な革製の学生鞄は、くるくる回転しながら誘拐犯の後頭部に直撃した。
 不意打ちと、あまりの強い衝撃に、男は脳震盪を起こしたか、よろよろと足取り覚束なく、稔を地面に転がして自分も地面に倒れ伏した。
 甲子郎はそのまま走り寄ると、すかさず稔を拾い上げた。
 そこへ家令が声を張り上げて呼んだのだろう、家の使用人がわらわらと誘拐犯を取り押さえに出てきて、あっという間に倒れた誘拐犯を取り押さえてしまった。
 一連の出来事をぽかんと眺めているしか出来なかった晃則は、火がついたように泣き出した稔の声によって我に返った。
 見ると甲子郎の首に噛り付いてわんわん泣き喚いている稔と、それを頭を撫でてなだめている甲子郎とが、道路のわきで座り込み誘拐犯のひっ捕らえられる様子を眺めていた。
 晃則は甲子郎に駆け寄り、しゃがみ込んで彼の空いた手を握り締めた。
「こうちゃん!ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」
 何度礼を言っても足りない。
 大切な妹を救ってくれたことへ、自分は何を返せばいいのだろうというもどかしさ。大切な妹が危険に陥ったというのに、自分は何も出来なかったという悔しさ。 危機を免れたという安堵。
 それらがない交ぜになって、晃則の言葉尻は嗚咽に掻き消えた。
 眼からは涙が次々とあふれて、止めることができないでいた。
「利倉先輩、泣いてますよ」
 甲子郎も安堵した声で笑った。
「しっ……知ってらい!」
 十八にもなって人前で男泣きだなんて恥ずかしすぎる。晃則は頬を染めたが相も変わらず涙は出続けた。稔も甲子郎にしがみつき泣いていた。

 それからというもの、稔は甲子郎にべったりになってしまった。
 助けてくれた人間に対する安心感があるのか、それともあのショックで甲子郎に対する何らかの遠慮が消えてしまったのか。
 甲子郎が来るたびに、合鴨の雛のごとく後をついてまわり、横に引っ付いて離れない。一生懸命に甲子郎の関心を惹こうと、その日幼稚園であった事を話したり甲子郎の為に何か作ったりするのだが、彼に合わせてもらっているのは否めない。
「なんか……懐いたら懐いたで、逆に申し訳ない結果になっちゃったな」
 晃則が申し訳なさそうに頭を掻くと、甲子郎は首を振って笑った。
「そんなことありませんよ。うちの妹は一つ下なだけだから、口を開けば憎まれ口ばっかりで可愛くない可愛くない……」
 そう言って甲子郎は、はしゃぎ過ぎて眠ってしまった稔のばら色ほっぺをつついた。その様子がなんとも嬉しそうだったので、晃則は彼に妹を見せてよかったな、と思った。



 ぼんやりと月を眺めて昔のことを思い出した晃則は、物言いたげな視線を甲子郎に送った。彼は視線にすぐ気付いて、グラスを呷りながら横目で晃則を見た。
「なに?」
 グラスから唇を離すと、甲子郎は晃則に訊ねた。
「いやあ、こうちゃんも大きくなったなあと思ってさ」
「まあね。あれから二十センチ以上は伸びたからね、そりゃ大きくもなるよ」
 もう今では甲子郎は晃則に対して敬語を使わない。高校を卒業してからは先輩とも呼ばれなくなった。少し寂しい気もするが、甲子郎とは対等でいたいから今の状態が望む姿だ。
「こうちゃんと出会ってもう十二年か、早いな」
 月日がめぐるのは早いもので、そんなことを言い出すのは歳を取った証拠なのだと誰かが言っていた。
「あの頃はまさかこんな日がくるなんて、夢にも思わなかった」
「そりゃあ誰も想定はしないだろ。稔さんなんて四歳の幼稚園年少組さんだったしね」
「こうちゃん、明日から俺の義弟(おとうと)か」
「そうなるね」
 なんだか嬉しくなって、胸の底からこみ上げてくる歓喜が呼び起こす力で甲子郎の肩を叩いた。
「痛い」
義弟(おとうと)
「なに」
「うわ、返事したよ。義弟(おとうと)
「だからなに」
 他愛もない会話に熱くなる。胸が、目頭が。
「……稔のこと、できれば幸せにしてやってほしいな」
「……」
「普通の結婚じゃないって分かってるけど、こうちゃんだから言えるんだ」
「……分かった」
 晃則の訴えに承諾の返答をした甲子郎だったが、その表情はどこか複雑で、どこか自信がなさそうだった。
 その裏に何があるのか晃則には分からないが、自分は彼を信じるだけだ。
 晃則は甲子郎から目を逸らし、両手に持ったグラスの中身に視線を落とした。
「あの日、思ったんだ。みぃが嫁に行くんなら、こうちゃんレベルでないと俺は許せないんだろうなって」
 まさかその甲子郎が稔と結婚してくれるなんて思わなかったけど。晃則は心の中で一人ごちた。
 俯いた晃則の耳に甲子郎の静かな笑い声が聞こえた。顔を上げて振り向くと、甲子郎は立て膝に顎を乗せてグラスの氷を揺らしていた。
 透明な氷がガラスに当たって涼しげな音を奏でている。
「『ぼくは利倉先輩に認められた唯一の人間』だから」
 睫毛を伏せて氷が融けゆくのを眺めているようだったが意識はそこに集中してはいまい。
 不意に視線を上げると晃則に移し、口角を上げて笑った。
 けれど目の奥は、笑っていなかった。
「いいよ、晃則。約束する、稔さんを幸せに」
 彼女の望む幸せを。

 そしてそれきり、甲子郎は口を閉ざした。
晃則は彼の真意も妹の望みも、このときはまだ何も知らない。

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