仮初のつがい鳥
挿話
「ごめんな、ほったらかしにしちゃってさ」
 眉尻を下げて晃則が言うと、甲子郎は気にした様子もなく首を振った。
「一番下のみぃのことは誰にも話したことないんだ。一番可愛くて、一番大切だから、特別なやつにしか見せてやらないって、みぃが生まれた時から決めてたんだ。だから学校のやつらは俺に妹は二人しかいないって思ってる」
「じゃあ、ぼくは利倉先輩に認められた唯一の人間だ」
 そう言って甲子郎は心底嬉しそうに笑った。
そして歩み寄ってくると、晃則に抱き上げられた稔を見上げて優しく笑いかけた。
「こんにちは、みのりちゃん。ボクは江副甲子郎です」
 小さな子供にもきちんと自己紹介する甲子郎の生真面目さが、やはり好感を持てると晃則は思った。けれど稔は違うようで、人見知りをして晃則の首に噛り付く。
「わー、ごめんな、こうちゃん。こら、みぃ、こうちゃんにコンニチハくらい言うの」
 どうにか甲子郎のほうを向かせようと、抱きなおそうとしたのだが、稔は頑固に晃則にしがみつき、両目を覆って喚いた。
「やーだー、こわいー」
 晃則は兄として、幼くても妹の非礼を咎めたのだが、稔はただ単に人見知りをしているわけではなかった。
 甲子郎はそれをすぐに察知して、大きな丸いメガネに手を掛けた。
「ああ、周りにメガネ掛けてる人がいないから、怖いのかな」
 今まで彼がメガネを外す所を見たことがなかったと、今更ながらに思い至り、晃則は甲子郎の顔を凝視した。
「おお〜。こうちゃん、いつもよりちょっと目が大きい!」
「いつもは目が小さいですか」
「凹レンズの効果でちょっとだけ。でも随分と印象が違うな」
 甲子郎はメガネの分厚いレンズを、ポケットから取り出したレンズクロスで丁寧に拭いた。
 地味で野暮ったい印象の甲子郎だが、メガネを取るとその整った顔かたちと睫毛の長い瞳が露出されて、キレイな少年だと認識させられる。
 垢抜けないのは仕方がないが、髪型やもう少し背が伸びれば、色素の薄い肌と髪色に、それこそ女が黙っていないだろう。
 女といえば、今腕に抱いている可愛い妹も、遺伝子レベルで生粋の女の子だから、もしかしたら目の色変わっているかもしれないと、晃則は内心でハラハラしながらそっと稔の顔色を窺った。
 メガネを外して、良好とは言えない視界の中で甲子郎が稔に笑いかけた。晃則も息を詰めて稔を見守る。必要以上に懐く必要はないが、兄として社交上はにかみ笑いくらいはしてほしいものだ。
「こうちゃん、やっ!」
「……なんか、嫌われたみたいです」
 兄の祈り虚しく、妹は兄の親友を激しく拒絶して終わった。
「……本当に、ごめんな、こうちゃん……」
 理由も分からず幼児に嫌われてしまった甲子郎に、晃則はとても掛ける言葉がみつからない。ただ兄として、妹の無礼を詫びるしかできないのだった。
 それでも内心では、妹が甲子郎のキレイな顔を見ても、心変わりなく兄に縋ってきてくれることが、たまらなく嬉しいのだが。それは甲子郎には内緒の話。

 初対面で完全に稔は甲子郎を嫌ってしまったかに見えた。
 しかしどうしてだか、その日を境に稔はしきりに甲子郎の名前を口にするようになった。
「こうちゃんは?」
 晃則が学校から帰ってくると、玄関先に出迎えた稔が第一声に聞いてくる。
「こうちゃんは今日は来ないよ」
 晃則は面食らいながらも、兄を一心に見上げてくる妹に答えた。
 他にも用もないのに晃則の部屋に来て、甲子郎を呼んだり、枕元に置いてあった栗色のテディ・ベアにこうちゃんと名づけてお気に入りにしたり、明らかに甲子郎に好意を持っている風である。
 しかし甲子郎を家に連れてくると、初対面の時と同じように、晃則の背後に隠れて、甲子郎が呼んでも晃則がなだめても、嫌がって出てこようとしない。
 せっかく稔に会いに来てくれたというのに、晃則は申し訳ない思いでいっぱいだった。甲子郎は稔の態度に怒りもせず、少し困った顔で笑うだけだった。

「みぃはこうちゃんのこと好きか?」
 ある日、とうとうたまらず聞いてみたのだが、稔は押し黙って思案にふけり、上目遣いに兄の顔色を窺うと首を振って否と答えた。
 甲子郎を好きだといってなにか不都合なものでも晃則の顔に付いていたのだろうか。晃則はそっと頬をさすったのだが、手には何も付いてこなかった。
 稔の言動を見るに、甲子郎に好意を抱いているのは明らかであるので、何らかの遠慮ないし意地を張っているのだと晃則は推測した。
 ではストレートに訊ねれば、欲しいものもいらないと答えるに決まっている。すこし言葉を変えて言ってみれば、案外引っかかるかもしれない。
「こうちゃんにまた、来て欲しいか?」
 すると今度は素直に頷いたので、晃則は小さく溜息を吐きながら甲子郎に頭を下げる決意をした。

 晃則は学校で甲子郎を見つけると、人気の少ない階段のかげに連れて行き、両手を合わせて勢いよく頭を下げた。
「こうちゃん、うちに遊びに来てくれないかな!みぃがまた遊びに来て欲しいって」
「稔ちゃんが?」
 甲子郎も稔には完全に嫌われていると思っていたらしく、晃則の申し出に目を丸くして驚いていた。
「このあいだはホントごめんな。みぃ全然喋んなかったけど、こうちゃんに会うの恥ずかしかったみたいなんだ。こうちゃんが帰った後なんかくまのこうちゃん引きずり回してやたらと興奮してさ」
 テンションの高かった稔は、栗色のテディ・ベアを振り回し、何かを思い出しては奇声を発してぬいぐるみをバシバシ叩いていた。
 こうちゃんと名づけられたのに、くたくたのボロボロになったぬいぐるみが非常に憐れである。
「くまの、こうちゃん?」
 自分と同じあだ名の『くま』に興味を惹かれたらしい甲子郎がポツリと呟く。
「みぃの今一番お気に入りのぬいぐるみ。今度見せてやるよ」
 それまでに稔が無体なことをして壊してしまいそうな気もするが、今はくまのこうちゃんの無事を祈るばかりである。
「分かりました。今度うかがいます」
 目を細めた甲子郎の顔に、晃則は稔の歓喜する様子を思い浮かべて胸をなでおろした。

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