仮初のつがい鳥
挿話
 グラスの中の氷は外気温に晒されて、音を立てて傾いた。
晃則はテラスに椅子を出すと、甲子郎を呼んで二人並んで酒を飲み交わした。
明日は晃則の妹が、この甲子郎と役所へ婚姻届を出しに行くのだそうだ。
隣の甲子郎はひとの可愛い妹を娶るというくせに、結婚相手の兄の前で全く涼しい顔を崩さない。昔は可愛い所もあったのに、と晃則は十数年前の彼を思い出した。
 琥珀色の酒を嚥下する甲子郎の姿に、今よりも二十センチ低い身長を持つ地味な学生姿を重ねて見た。



 晃則が甲子郎と初めて会ったのは高校三年の春だった。
「物理化学研究部」の部室に、入部届けを持ってやってきた甲子郎を出迎えたのが晃則だった。
 新学期もあって、新入部員獲得のために毎日作戦会議を開いていたのだが、その日は十数人いる部員の半数が所用で出席できず、部活にも会議にもならなかったので部室は閑散としていた。
あらかじめ活動のない日であると決まっていたのだが、晃則は部室に入り浸るのが好きであった。居心地が良くて、部活のある日もない日も関係なく毎日の放課後一時間はここでぼんやりしたり、宿題をしたり本を読んだりしていた。
 目に付いた半田を意味もなく融かして遊んでいた時、部室の扉が小さく叩かれ遠慮がちに開いた。晃則はそれを背中越しに聞き、振り返った。
 出入り口に突っ立っていたのは栗色頭のチビ眼鏡だった。当然、「栗色頭のチビ眼鏡」とは晃則の印象であるが、その外見的特徴はほぼ間違っていない。
色素の薄い栗色の髪の毛が眼鏡のフレーム上部にまで達し、大きな丸いレンズの眼鏡は光の屈折加減で目元が見えず、表情が窺い知れない。加えて真一文字に引き結んだ口元は感情に乏しい。
百六十センチを超えない身長に、成長期前の華奢な体を覆うだぶだぶの詰襟が余計に少年を小さく見せた。
 彼は一人しかいない部室に面くらい戸惑ったのか、入り口で立ち止まったまま入室を躊躇った。しかし振り返った晃則と目が合うと遠慮がちに「失礼します」と一言の断りをいれて晃則の前までやってきた。
 手にはB6サイズの紙切れがあり、晃則はそれが入部届けだと気付いて彼を見上げた。
「あ、わりい。今日、誰も来ないんだ。顧問なら化学準備室にいてると思う」
 晃則の言葉に彼は更に戸惑った様子で明らかに肩を落とした。勢い込んで入部しようと思ったら出鼻をくじかれた、という心境か。
 小さな声で「そうですか」とだけ言い残して、彼は踵を返した。
 肩を落とした後姿が少し憐れを誘ったので、晃則は咄嗟に彼を引き止めたのだ。
「なあ」
 椅子から立ち上がると、少年のつむじが容易に見下ろせた。もっとも、百八十センチを超える晃則には大抵の人が見下ろせるのだが。
「入部希望?部活風景は見せてやれないけどさ、部室の案内くらいだったらできるぞ」
さっきまで弄っていた半田を掲げもって、彼の返答を促した。
「……じゃあ、お願いします」
 いくらかの思案の末、彼は口元を綻ばせて晃則に頭を下げた。
なんだ、笑えるんじゃん。
晃則はホッと安堵の息を吐いた。

「俺、三年の利倉晃則(としくらあきのり)
 人懐こい笑みを浮かべて晃則は部室の棚をあさった。部員全員で歓迎できなかった詫びにせめて晃則一人だけででも持て成してやろうと、秘蔵の飲食物を探し回っているのだ。
 部員の一人に「脳に栄養」と称して、事あるごとに菓子類を食べたがるぽっちゃり系がいるのだが、彼の買い置きが左から二番目の下の棚に大きな段ボール箱をお菓子箱として備蓄してある。晃則がその中を覗くと空っぽで、食べるだけ食べつくして補充もしない贅肉の塊を思い浮かべて軽く舌打ちをした。
「あの、そんなに気を遣っていただかなくて結構です。普段どういうことしてるのか、少し聞かせていただけるだけでいいですから」
 少年は心底申し訳なさそうに眉尻を下げた。余計な気を、逆に遣わせてしまったようで、晃則は心の中で苦虫を噛み潰した。
「あの僕、1年の江副甲子郎(えぞえこうしろう)といいます。よろしくお願いします」
 深々と下げられた頭から栗色の髪の毛がさらりと落ちて、無頓着な晃則でも甲子郎の髪の毛が綺麗だと思った。男子にあるまじき滑らかさで、幼子の髪質に匹敵するかもしれないと、晃則は今年幼稚園に入った妹を思い浮かべてこっそり顔を綻ばせた。
「こーしろーっていうと、甲子園のきのえねって字?」
 晃則は頭に思い浮かんだ最初の文字を言ってみた。他にも孝四郎とか幸四郎とか思い浮かんだのだが、甲子が彼に一番合っている気がしたからだ。
すると彼は一瞬まばたきをして、嬉しそうに笑い、
「そうですよ」
さっきから手の中にあった入部届けを見せた。几帳面で丁寧な字が彼の性格を物語っている。
「じゃあ、名前付けた親は阪神ファン?」
 次に繰り出した、どうにもとんちんかんな晃則の質問に、唖然としつつも彼はおよそ年下とは思えない冷静さで苦く笑った。
「生まれたのが甲子っていうだけで、甲子園は関係ないと思います」
彼の的確な返答に、晃則は指折り数えて手を叩く。
「ああ、そうか!本当だ!」
俺、馬鹿だな。笑いながら頭を掻く晃則に、心密かに同意していたと、のちの甲子郎は本人に告白したという。

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