仮初のつがい鳥 |
2−5 |
稔の縋るような眼差しに、甲子郎はただ黙っていた。 これは賭けだ。彼が是と頷かなければ、稔は親の敷いたレールの上を歩かなければならない。 それは稔にとって、あまりにも不安な将来だ。 「公の場では完璧な妻でいます。私に出来うる限り、あなたとあなたの会社の利益となるよう働きましょう」 もう、稔から提示できるメリットは出し尽くした。 まるで死の宣告を受けるように、甲子郎の言葉を待つのみとなった。 「いいよ」 知らず俯いていた稔の頭上に低い声が落ちる。 返事は意外にあっさりとした声音で、稔が顔を上げると甲子郎はニッコリと笑いかけた。 稔はそんな彼の気安い返事にあっけに取られる。 まるで、学校で隣の席の友達に消しゴムを借りるくらいの気安さ。 先ほどの沈黙が嘘のように、甲子郎の顔は普通だった。 「あなたが一人で生きていけるだけの社会的地位を手に入れた時――」 普通の顔が止まったまま、唇だけが動く。 「それが期限だ」 ああ、契約は受け入れられた。稔は頭の隅で思った。 甲子郎の唇が弧を描いていくのを稔は見つめた。 そう、笑ったのではなく、あくまでも唇を吊り上げたというのが相応しい。 「僕はその間に、せいぜい利倉の力を搾取して、のし上がって見せよう」 くいと顎を反らして稔に眼差しを降ろす。それは自尊心の強い人間と推察するに難くない態度だった。 そんな人を、自分は利用しきれるだろうかと一抹の不安が稔を掠める。 いやしかし、と頭を振る。 互いの間にあるのは利害のみ。彼もそれは充分心得ているはずだ。 甲子郎が席を立つ。 稔はそれを眼で追った。 甲子郎の右手にチャラリと光る車のキーに視線を移して、部屋の扉の前で彼が足を止める。そうして届く声。 「家まで送るよ。ついでにご両親に挨拶も済ませようか?」 そう言って稔を促す。 稔は慌てて彼の後について行った。 契約は成された。 もう後戻りは出来ない。 |
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