かすがい☆大作戦

04.

まんまと父を誘い出すことに成功したぼくは、さっそく本題に入ろうと父を見上げた。
父もぼくを見下ろしていて、ちょうど目が合うとそのまま僕の目線にしゃがんでくれた。
「かずさ、お父さんに何か話があるんか?」
ぼくの父なだけあって、ちゃんと気付いてくれていたようだ。
「お父さん、今すぐ帰らなくちゃ大変だよ」
ぼくは父の腕に取りすがった。うっかり用件を忘れて、父と秘書さんたちとのお喋りに夢中になってしまったあとで、こんな必死に訴えたって危機感に欠ける。
けれど父は眉をひそめて真剣な顔になった。
「何があった?」
「お母さんが、離婚するって……」
ぼくの言葉を聞いたときの、父の衝撃の受けようったらなかった。
まず頭を鈍器で殴打されたかのように、一瞬びくりと震えて、目を見開いて凍りつく。
僕の頭を撫でようとして上げた手は素通りして、床に倒れゆく体をかろうじて支えた。
片腕は床に、もう片手では口元を覆って絶句している。しかし、視線はどこか遠くをさまよっていて、ふらふらと覚束ない。
体を起こすこともせず、父はしばらくその体勢のままだった。あまりのショックの受けように、ぼくもいささか動揺してしまい、呆然と父を見ていることしかできなかった。
動揺しすぎると、人間は何も出来なくなるらしい。

先に我に返ったのはもちろんぼくだ。
「……お父さん」
遠慮がちに声をかけると、父は風船がはじけるように我を取り戻して顔を上げた。
「ああ、かずさ」
ちょっとだけ、泣いてるのかも、と期待したのだが、父の頬は濡れていなかった。その代わり、びっくりするほど真っ青で、それはそれで情けなかった。
けれど、父のこの世の終わりのような様相を目の当たりにすると、浅慮な行動を起こしてしまったのかと後悔や不安が胸をよぎる。
ぼくはそれらを振り切って、果たさなければならない使命を思い出すのだ。
「お父さんに会えなくて寂しいって、お母さんが言ってた」
だから帰ろう。帰ってお母さんを元気付けてあげて、と言いたかったのだが、逆に母を今ここに呼んで父を元気付けてあげて欲しかった。
だから今は一刻も早く父を家に連れて帰らなければ。このまま干からびて死んでもおかしくはない。
「とにかく、紅子さんに話して帰らせてもらえるようにしないと」
ぼくは父の腕を取って起き上がらせたあと、放っておくと呆然と立ち尽くしてしまう父を引っ張った。
ぼくは心の中で母に何度も助けを呼んでいた。今はもう後悔の念でいっぱいだったのだ。
父を迎えにいったことは正しいことだと思うけれど、母の言葉を伝えたのは不注意だったと思う。こんなに世話のかかる父を連れて帰るのは骨が折れるのだ。
父を世界で一番うまく操れるのは、なんといっても母をおいて他にいない。

ようやく社長室に帰り着いて、ぼくが扉を開けると、さっきまでの腑抜けが嘘だったかのように、父は俊敏な動きで秘書の紅子さんに飛びついた。
「今すぐに帰らせてくれ、僕の命の危機だ」
不穏な声音に室内の誰もがおどろき、あ然としていた。唯一の例外は紅子さんで、さすが付き合いが長いだけに、そんなことには全く動じないようだった。
父と紅子さんはしばらくにらみ合ったままで、室内にはいやおう無しに重苦しい沈黙が支配することになる。
みんなが固唾をのんで見守る中、沈黙を破ったのは紅子さんの嘆息だった。
「そんなこと言い出すと思ってた」
紅子さんは眉間にしわを寄せながら、親指をこめかみに押し付けていた。頭痛を抑えるためにするんだって、紅子さんに聞いたことがあるのだが、その頭痛の種はもれなくうちの父がらみなんだろう。
ぼくは心の中で紅子さんに手を合わせた。
「明日の朝、定刻どおりに迎えに上がります。それまでは、わずかばかりではありますが休暇といたしましょう。ただし、以降の予定は一切の変更を受け付けないものとしますので、今以上に忙殺されるとお思い下さいませ社長」
艶然とほほえむ紅子さんは、幼いぼくから見ても綺麗な人だと思う。
そして綺麗なだけではなく、とても優秀で有能な社長付き第一秘書なのだ。
「ご子息をお送りしてきた車が、エントランスで待機しております。そちらでお帰りを」
そう言って差し出された鞄は、ふだん父が愛用しているブリーフケース。紅子さんは父の手にそれを乗せると、笑ったまま手を振ったのだった。
「恩に着る」
父は鞄を握り締めると踵を返してぼくの手をつかんだ。
ぼくはどんどんと遠ざかる紅子さんに手をふり返しながら、今日のわが家が存続するのも、わが社が成り立っているのも、この人のおかげなのだとしみじみ実感するのだった。
うちの両親は一生、紅子さんに足を向けて寝られないことだろう。

廊下を歩くすがら、ぼくは父に抱き上げられた。子どもの足では、大人の歩度には到底ついていけないのだ。
そこからのぼくの視界はぐんと高くなり、ぼくは父の肩にかじり付いて、後ろに流れる景色にみいった。
エレベータが階下に到着し、父はエントランスロビーを一直線に横切っていく。
「お疲れ様。うちの子がお世話になりました」
「いいえ、お世話だなんてとんでもない」
途中の受付に立ち寄って、父はしっかり頭を下げた。ぼくも肩から下ろされて、ついでに頭を下げさせられた。
「また来てね!」
新人のお姉さんには世話になっていないと言いたいけれど、それを言うとかわいそうなのでやめておく。
しゃがみこんでぼくに満面の笑みを向けてくる。子ども好きではあるのだろうが、彼女自身が子どもみたいだ。
父と手をつないで受付をあとにする。振り返って手を振ると、受付のお姉さんも振り替えしてくれた。特に新人のお姉さんが力いっぱい手を振る姿はちょっと微笑ましいのだった。
外へ出ると黒塗りの車が正面に停められてあり、三木さんが後部座席の扉を開けて待っていた。
三木さんは父の姿に一礼すると、ぼくへ視線を向けた。
にこりと微笑んだ顔には笑いじわが刻まれた。



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