かすがい☆大作戦

03.

父親の職場を訪ねてきた一賛は、それはもうおとなしやかにソファに座っていた。
普段は五歳男児らしく、家の中を三歳の弟と走り回ったりしているが、今日は文字通り借りてきた猫である。
非常に賢しい子どもである彼は、部屋の忙しくも張り詰めた空気を敏感に感じ取っているのだろう、一言も口を開かず、目の前を行き交う大人たちをかわるがわる目で追っているだけだった。
時おり父親の仕事姿を凝視して、目の前に置かれたオレンジジュースをすすっている。しかし生憎と水流は書類に没頭しており、愛息子の熱い視線に気付く余裕がない。
一日も早くこの忙しさから脱却して、家族との時間を取り戻したいと考える水流の努力も、一賛の俯く背中の丸みを目の当たりにすれば、果たして正しいのかと疑問に思えてくる。
「一賛、チョコレート食べる?」
仕事の合間を見つけて、水流の代わりに一賛をかまいに行くと、彼はしゃんと背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。でも、おかまいなく。先ほど三時のおやつを食べてきた所なのです」
「あら、お母さんの手作りの?いいわねえ」
一賛は頬をわずかに緩ませて頷いた。緊張した表情も、さすがに母親の話をすると少し和らいで、私もほっとする。
ひふみちゃんの作るお菓子は絶品で、思い出すとよだれが出てくる。
甘い物好きであるが評価は辛い水流に貢ぐうち、どんどん腕をあげていったものと見る。夕飯をご馳走になった後に出てくるデザートの数々は、どれもこれも有名パティシエに勝るとも劣らないおいしさと美しさを兼ね備えているのだ。
一賛に発した羨望の言葉でさえ、気持ちがこもりすぎていて、幼児に向かっての台詞にしてはいささか大人げなかったかと思う。

思い出せば食べたくなるのは道理であると思うのだが、それに付随してか、私の胃袋も少々空きを訴えてきた。
あの美味には到底およばないが、空腹は最高のスパイスである。巷でおいしいと評判の菓子店で買ってきたバウムクーヘンなどを茶菓子として一息入れようか。
根を詰めて働くのも悪くはないが、人の集中力にも限界がある。そこを無理して働けば、逆に能率は上がらない。適度な休憩は必要なものとして、仕事の合間にとることを私は推奨している。
「じゃあ、この辺で少しだけ休憩にしましょうか。社長?」
実質この場を取り仕切っているのは誰がどう見ても私であるのだが、社長を立てぬ秘書はおるまい。
上役の水流に一応の伺いをたてるため振り返って見れば、私の言葉に誰よりも早く反応し、愛息子のもとへ向かおうと席を立つ親ばかを、目の当たりにするはめになった。長い付き合いであるため、これしきのことで怒りはしないが、呆れを通り越して脱力するのは仕方のないことだと思う。
私の一声で周りから一斉に緊張の解ける溜息が聞こえ、一瞬にして張り詰めた空気が破られた。各々の口から早くも雑談が聞こえ出す。
お茶を淹れるのは男女の別なく当番制にしている。いまどき男子も茶の一つでも淹れられないようでは嫁の来手がないもんだ。と、茶の一つも淹れない私が言える立場でもないのだが。

茶菓子が切り分けられ、各々の手に湯気立つ湯飲みが配られた頃、室内のほぼ全員が一賛のまわりに集まっていた。皆、興味津津で社長令息を見に来ている。
もちろん水流は早々に一賛の横に陣取り、久しく寝顔だけしか見ることのなかった愛息子との語らいに興じていた。
一賛がどうして父親のもとを訪ねたのか知っている私は、社長秘書として彼が用件を言い出すことに恐れていた。一瞬の気の迷いだとしても、水流がひふみちゃんのあの言葉を聞いてしまったが最後、仕事を放り出して帰宅するに決まっているのだ。そしてそんな事態に陥ったら、最悪、数日は出社しないかもしれない。
そうなったらお終いだ。
今までやってきた社長職の引継ぎも、取り戻すのにえらく時間が掛かることだろう。仕事はなにも、机上で済ませる書類だけではないのだ。社長就任パーティで会えなかった、他社の重役や政財界に顔の利く御仁に挨拶しにいくのも立派な仕事のうち。
しかも各々の御仁は決して暇ではない身だ。せっかくこの私が取り付けた約束を、妻のご機嫌とりで反古にされては恨むに恨めない。
こんなことを言っては可愛いひふみちゃんに申し訳ないのだけれど、これはこれ、それはそれ。私は社長を補佐する秘書であり、重大な責任を追って仕事をしているのだ。
ありがたいことに、彼女は聞き分けのよい奥方であるから、水流が傍にいると駄々をこねようとも、蹴飛ばして出社させることだろう。
しかし、一賛が社に向かっているという連絡をくれたときの、彼女の物悲しそうな声も、私を少なからず同情させた。願わくば、この忙しい時期が一日も早く終わってくれることを願うのだが、そうなる前に夫婦関係が破綻すれば寝覚めが悪い。仕事を詰め込んだ秘書の責任と、誰に罵られるか分かったものじゃない。
一丁、ここらで水流には早めにご帰宅いただき、夫婦愛を確かめ合っていただくのも、予定通りに仕事を進める一つの安全策なのかもしれない。

私が脳内で今後のスケジュール調整に懊悩する間、水流親子を中心とした歓談は、徐々に盛り上がりを見せていた。
「社長の息子さん、お利口なんですねえ」
「ほんとほんと、社会人でもあんな立派なあいさつなかなかできませんよ」
「……ありがとうございます」
「一賛は僕に似て賢いからね」
遠慮のない部下たちからの賛辞に、水流は親ばか全開のゆるゆる笑顔だ。一賛は照れ臭さに少しの人見知りが加わって、いささか無愛想な礼を返していた。しかしご満悦な父親の表情を見上げるたび、頬を赤らめる健気な姿は、微笑ましくも可愛らしい。
「でも顔は奥様に似てらっしゃるんですよね……?」
不意に放たれた誰かの質問に、皆が息を呑んだ。
無遠慮の部下たちであるがゆえ、気遣わしげに発せられた言葉は気遣いが過ぎてか、自信喪失と言わんばかりに語尾が消えていく。他に誰に似るというのか、それでは逆に最上級の侮辱ではないか。
一瞬でも絶句したものは、あとできつい灸を据えてやろう。
慌てて一賛に視線を移すと、聡い彼は敏感に空気を感じ取り、顔色をなくして俯いた。私も顔色をなくし、頭を抱えたくなった。
幼子の前で、なんという質問の仕方をするのだ。犯人は必ず見つけ出し、残業八十時間の刑に処する。
「ああ、僕には全然似てないってよく言われるね。顔だけは」
仕事の時の張り詰めた空気とはまた違う、緊張する空気を知ってか知らずか、水流はあっけらかんと答えた。むしろ空気を読んでいるのなら、でかしたと褒めちぎってやりたい。
「でも、うちの奥さんの小さい頃にそっくりでね、もう可愛くて可愛くて仕方がないんだよ」
その言葉で全てが塗り変えられた。
目尻を下げて息子の頭をぐりぐり撫でまわす水流と、父親に髪の毛をぐしゃぐしゃにされてはにかむ一賛に、この場にいた全員が安堵の息を吐き出しただろう。

さっきの出来事で懲りたのか、皆当たり障りのない会話と、悪意のない語感を用いた質問を心がけていた。
そして水流が嫁の話に顔を綻ばせたのも、彼らは見逃さなかったらしい。息子の話はそこそこに、次なるは愛妻の話へと移行するようになっていた。
さすがは社長の傍で仕事をするものたちよ、実に抜け目がないものだ。
ああ、すでに水流のどうしようもなくだらしない顔が目に浮かぶ……。
「息子さんにそっくりっていうことは、相当な美人なんでしょうね」
「美人……ではない」
言葉だけ見れば謙虚にとられるだろう台詞も、必死に平常を装う口元が本心を正直に物語る。
付き合いの長い間柄であるだけに、あの言葉はそれで終わらないであろう事を私は知っている。口には出さないが、心の中の続きはこうだ、「けど、世界で一番可愛い」と。
胸焼けしそうだ。

話題はなおも社長夫人に及ぶと、大人の話をじっと聞いていたはずの一賛が、いつの間にやら物言いたげにそわそわしているのが目に入った。
そろそろ自分がここへ来た目的を思い出したのだろうか。しかし、一賛は空気の読める出来たお子さんなので、大勢の前であの話題を口にすることをためらっているのだ。
「奥様って、確か佐想のご令嬢でしたよね」
「あ、それ六年前に新聞で見たよ」
さすがに昔のことを引っ張り出されると水流も恥ずかしいらしい。気まずい様子で唇を真一文字に引き結び、視線を床の上で泳がせていた。横の一賛はもちろん知らないことであるから、不思議そうに父親の狼狽を凝視している。
私は当時の新聞記事を思い出し、腹の中で嘲笑した。当時の水流は、気恥ずかしさよりも幸せが勝っていたので、全く意に介していなかったのだ。世界中が祝福してくれていると、噴飯ものの言葉をあの口から聞いた記憶がある。

「お父さん」
一賛が父親の袖を引いて呼びかけた。少し遠慮がちではあるが、子どもらしい仕草だ。
水流は羞恥に彷徨っていた視線を息子に向けると、わずかに首を傾げた。
「どうした?」
「おしっこ行きたい」
子どもらしいストレートな物言いだが、普段を知る私と水流は一瞬だけ眉をひそめた。
彼は普通の子どもよりも発達が早く、賢い。だから、知らない場所でもトイレくらいなら、その辺の人間に場所を聞いて勝手に入るくらいの芸当はやってみせる。それに言葉遣いも大人並みで、もう少しオブラートに包んだ表現をするはずだ。
「マルベニに連れて行ってもらいなさい」
疑問を感じたのだろう水流は、私を呼び寄せた。
しかし、と私は思う。彼が用があるのは水流だ。
「いやだ。お父さんと一緒に行く」
なおも背広の袖を握り締める一賛は、唇を突き出し、眉根を寄せて首を振り回す。子どもが不機嫌に否やを唱える姿で、彼は子どもであるからごく自然の行為なのだが、故意にやっていることに気付いている私と水流には不気味なものに映った。
「わかった、わかった」
仕方がないとでも言うように、水流は息子の頭をひと撫ですると、子どもの手を引いてソファから立ち上がる。中座に断りを入れて、親子は部屋を出て行った。
「立派なあいさつできても、やっぱ子どもですよねえ」
「お父さんと一緒がいいって、可愛いですね」
部下たちの無邪気な会話に溜息が出そうだ。手玉に取られていることにも気付かない、おめでたいやつらめ。
水流たちが帰ってきた時のことを考えると頭痛がする。
今ごろ一賛は父親に、母親の不穏な言葉を告げ口しているはずだ。そして水流は泣きながら帰らせてくれと懇願するに違いない。
今のうちにスケジュール調整を終わらせておくべきかと、私は判断し、自分のデスクに向かった。



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