Before love

08.

僕の怒声は部屋中に響いて、酔っ払いの混沌とした雑音に一瞬にして静寂が生まれた。
思い思いに視線を浴びているのだが、僕の見詰める先はただ一つで交わることはない。
酔っ払いのオッサンと視線が合ってもいい気はしないが・・・。
輪の中心に佇む彼女も僕の怒声に驚いて身をすくめて止まった。
ゆっくり頭をもたげるのがスローモーションのように僕の瞳に写る。

「あー・・・ちゃん。」

以前よりも肩口でバッサリと落とした髪がサラリと揺れて彼女の頬を覆っていた。
制服のままで、有名なお嬢様学校のそれは大変目立つことこの上ない。
おぼつかない足元がゆらりと揺れて、僕の方に傾いでくる。

彼女にそんな風に呼ばれるのはどれほど久し振りなのだろう。
同じ彼女に呼ばれるのでも今と昔、受ける印象が全く違う。
酒気帯びでどこに焦点があっているか分からない視線がかろうじて僕を捉える。
ゾクリ・・・と背筋が粟立った。

「あーちゃん!!」
手を広げて飛び込んでくるから、僕もそれを受け止めた。
よし、確保。
一目見て、僕を幼馴染の「あーちゃん」と分かってくれたことが嬉しい。そして変らぬ好意を向けられたことも。
感情の起伏を抑える事もしないで、彼女は僕にしがみ付いて放さない。背中に回った腕がきつく胸を締め付けて、指が背広の上着を握り締めている。
高鳴る鼓動をなだめつつ、彼女の小さな身体を包み込んで僕は彼女の耳に言葉を吹き込む。
「ふみ、迎えに来たよ。一緒に帰ろう。」
彼女が「あーちゃん」だというのなら、当時の僕らしく振舞って見せよう。それで彼女がこの場から救えるのなら。


ひふみを確保できた所で静まり返った部屋の中を見た。
酔っ払いは全ての神経が鈍くなってるのか、咄嗟の状況に動けないでいる。
グラスを片手に半開きの口から琥珀色の酒がこぼれていたり、手からグラスがこぼれていたり。
ふと視線を奥に走らせるとどこか見知った顔があった。
きっちりとダブルのスーツを着込んで、この雑然とした酔っ払いの海には少し浮いて見える存在で。
ああ、この騒ぎの首謀者は貴方でしたか。
そういう意味を込めて口を歪めて『笑って』やった。
あとで佐想に告げ口してやろう。どうせ佐想が煩わしがっていた商売敵だ、ここぞとばかりに完膚なきまで取り潰してくれるだろう。



誰も行動を起こさない内に先手必勝、逃げるが勝ち。
僕は抱きついて離れないひふみを無理から離して腕を掴んで歩き出した。
あ、今寝てただろ。僕の上着にヨダレ付けたな・・・。
空いた手でジュルリと口元を拭う彼女に思わず鋭い視線を向けてしまった。
だけどひふみはひふみで酔っ払ってるからか全然気付いてなくて、腕を掴んだ僕の手を煩わしそうに解こうとしていた。
「イタイ」
柔い二の腕に男の力で掴んだら結構痛かったらしい。そのように難色を示されて腕を解放してやった。その代わりすいっと彼女の腰をさらう。
僕の歩幅に合わせようと殆ど走るくらいの早足は、腰にまわった僕の手が一層加速を手伝っていた。途中何度も躓きそうになりながら、その都度僕が身体を掬い上げて。
出口まで着いた時には随分とひふみの息は切れていた。
「外にタクシーを待たせてあります。」
支配人は僕らを交互に見て外を促した。さすが気が利く。
「お嬢様、もう二度とこのような所に来てはいけませんよ。」
にこりと笑った支配人に、ひふみは息も絶え絶えに「・・・は、はひ・・。」と訳が分かってるんだか分かってないんだか微妙な返事を返していた。

支配人に春コートを受け取って、ひふみの手を取り店を出た。
店先に停めてあるタクシーに乗り込んで、とりあえず僕の家を行き先に指定した。
シートに身を預けると、右肩に重みがかかった。
睡魔の襲った彼女が耐え切れず僕に寄りかかってきた模様で、小気味良い寝息が聞こえてきた。寝つきがいいのは昔から変っていない。
知らず頬が緩む。

手を伸ばせばすぐ届く所に居る、僕の愛しい人。
「ふみ。」
小さく声を掛けたら小さい唸り声で返してきた。
そんなやり取りでさえも、夢でないことが嬉しくて。
手に持っていた春コートを彼女の上に掛けてやり、眠りを深めるようにゆっくりと髪を撫でていた。





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