Before love 02. 「好きな人がいるんだ。出来ればその人と結婚したいと思ってる。」 再び親族を交えて婚約破棄の申し入れをした。 今度は迷いのない、確固たる理由がある。 両親は24年間生きてきて、僕に恋愛感情も含めて感情らしい感情があったことに驚いていた。全く失礼な話だと思う。自分の息子だろう。 うちの両親も、菱和の両親も、まだ僕らが年若いこともあってか、何より僕が望んで交わした婚約でないからと、破棄を了承してくれた。 これで僕らが三十路目前とか、既成事実があったら破棄は成り立たなかったと思う。 ・・・よかった、むやみやたらに菱和にまで手を出さなくて。 菱和は最後まで破棄を了承しなかった。 何度も僕に迫って、僕の「好きな人」の名前を聞きたがった。 「彼女に迷惑は掛けられない。僕の勝手な片思いなんだから。」 気付いたばかりのこの想いは、彼女だって知らないこと。 僕は彼女の一切を口にしようとは思わなかった。彼女のことは、菱和であろうとも誰であろうとも知られてはいけない。 呆れと憤りに僕を睨んだ菱和に知られれば、彼女は謂われないことで攻められるのかも知れない。 菱和は気の強い女だから、きっと幼いあの子は酷い目に遭うだろうから。 そして怒りに任せて僕を激しく罵った従妹は、去り際涙を流して見せた。幼い頃からただの一度も涙を見せたことの無かった子だけに、少し驚いた。 けれどそれすらも、僕の心には響かない。 僕の心を震わせるのは、ただひとつ彼女の綺麗な涙だけ。 菱和には一生怨まれるのかと思うと良い気はしなかったけれど、彼女を手に入れる為の障害が一つなくなるのであれば、安いものだと思う。 彼女も僕も、社会的地位の高い家の子だから、不用意に手は出せない。 幸い接点はあるのだから、正式に申し込むべきか。 ああ、でもまだ向こうは喪中で、そんな中に縁談なんて申し込みに行くのは不躾だろうか。 「コラ、じょーむさん仕事しやがれ。」 「って。」 後頭部でポコンと軽い音がして、小さい衝撃を受ける。 後ろを振り返ると秘書のマルベニが、何かの冊子を丸めて立っていた。 ここは会社で常務に就任したばかりの僕のオフィス。ああ、仕事中だったっけ。 「常務に就任したばっかなんだから、サボってると頭のオカタイ部長陣からウダウダ文句言われるわよ。『これだから、御曹司は・・・』とかなんとか言っちゃって、嫌な思いすんのはアンタ一人で充分。なのに秘書のアタシまでとばっちり受けちゃうんだから、きびきび働けよ後輩。」 そう言ってマルベニは自分の席へ戻ろうとする。 そこでふっと顔を上げて、再びこちらへ振り返った。 「そういえば、アンタあのクソ女と切れたんだってね。」 『クソ女』という言葉の示すのが誰か、僕は長い付き合いの中で知っている。 マルベニと従妹の菱和は出会ったときから何が気に入らないのか、水と油のように合わないようで、顔をあわせてはいがみ合ってる。 全ての女の子には優しいマルベニには珍しく、菱和は本当に嫌いらしい。菱和は菱和で、僕が親しくしてる女性だから、マルベニのことは気に入らないんだと思う。 僕とマルベニの間には恋愛感情なんて起こる筈もないことは、従妹は知らないけど。 「ああ、もう知ってるのか。」 僕は首肯して曖昧に口角を上げた。マルベニが知ってるんだから、当然社内や世間には充分に広まっているのだろう。最近、方々からそれとなくアプローチされてることは気付いてないわけではなかった。 「やっとあの女のあざとさに気付いたか、昼行灯。」 マルベニは吐き捨てるように言葉を紡いだ。昼行灯・・・ちょっと考え事してただけなんだけど、そこまで言うことないと思う。 「あざといのは前から知ってたけど、別れた理由はそんなんじゃない。」 「別れた」という言葉を僕らの関係に当てはめるのは些か疑問だけれど、いちいち「婚約を解消した」とか大仰な言葉は使いたくない。 「へえ?面倒くさがりのアンタが重い腰上げて婚約破棄に踏み切った理由って何よ?あの女を断ろうと思ったんでしょ、相当の決断が必要よね。」 菱和は強引でしつこい性格だから、一度食らい付いたら放さない。それはもう、婚約解消は大変だったよ。 理由ね・・・。 わずかな逡巡がある。 それは僕が恋する彼女の噂が広まってしまうことへの懸念じゃない。こんな人だけれど、僕の秘書はとても有能で一応信頼もしている。 本当を言うと、恋する僕の噂は、僕のことだけは広まって欲しい。そうすれば、煩わしい方々からのさりげない縁談も、引き潮になるだろうから。 恋すてふ。 そういう歌があったな。 「いつまで悩んでる、言うの言わないの?ほれ。」 マルベニを苛立たせるには充分な間悩んでいたらしい。僕のデスクに近づいてきて、コツンとパンプスのつま先でデスクを蹴られた。その音で僕は我に返る。 僕が戸惑う理由・・・。 「相談事なら先輩がのってあげるから、ほれ、言ってみなよ。」 マルベニに言って、笑われないか。 「・・・好きな、子がいるんだ。・・・だから、菱和と婚約してられなくなった。」 「・・・」 案の定、目の前の有能秘書は僕の一言目でもう顔を真っ赤にして涙目に肩を震わせていた。・・・くそう・・・。 >>NEXT >>BACK >>TOP 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか (小倉百人一首41首目<壬生忠見>恋をしていると言う私の評価は早くも世間に立って仕舞った事だ。誰にも知られないように密かに思い始めたのに。) |