49.泣かないで恋人よ


どこかひっそりとした尊さんの家。
前よりも住む人の活気が足りないような気がした。
大声を出すのが憚られて、極力音を立てないで、小さく「お邪魔します」と囁いた。扉の開閉もひっそりこっそり、中の人が気付かないくらいに行動した。
気分はまるで泥棒だ。
悪いことをしにきたわけじゃないから、堂々としていれば良いんだけれど、この家の雰囲気が私をそうさせる。

靴を脱いで、廊下を進む。目標はリビングか!?
私の心臓は、電話をかけ終わってからずっと動悸が激しい。もう、心臓がおかしくなりそうなくらい、緊張状態が続いているのだ。それなのに、尊さんの家に来て、心臓は更に激しく打っている。
体は熱いのに、手足は冷たい。きっとこれが続いたら冷え性なのかも。
ちなみに私は冷え性とは無縁だぞ。

リビングの扉から漏れる灯りで真っ暗の廊下がほの明るく照らし出される。
視線を落として、自分の足を視界に写した。
この一歩から始まる。引き返すのは簡単だ。けれど、この一歩を踏み出さなければ、女の戦いに勝った意味がないのよ!
気合を入れろ!
大丈夫!きっと。
私はリビングの扉をゆっくりと開く。立て付けの良い扉は、音もなく開く。
少し前までよく通った空間。ご飯が美味しくて、とっても居心地が良い。私の大好きな、ツルタカシという人が作り出したから、だからきっと心地良いんだと思う。

部屋に滑り込んで、リビングを見渡すと、いつものソファに人の気配。彼の黒い髪の毛が、ソファ越しに見えた。
足音を立てないで、ゆっくりと近づくと案の定、彼は瞳を閉じて微睡んでいた。
マッチが乗りそうな長い睫毛が彼の頬に影を作る。
閉瞼以外はただソファに座っているのと変りのない姿勢で、器用に眠る男の人。
お仕事で着てるスーツはもう脱いで、今は部屋着のジーンズとパーカー。
なんでもないことなのに、寝顔を見るだけで、この男の人がすごく好きだと実感した。
やっぱり、手放せない。
自然と頬が緩んだ。
「・・・尊さん・・・?」
こっそりと呼んでみる。起こさなくちゃいけないけれど、まだ起こしたくない。だから、小さい声で、囁くように、まだ目覚めないで。

だけど午睡は所詮レム睡眠。浅い眠りは打破しやすい。
私の囁きに、尊さんの瞼がわずかに痙攣したあと、ゆっくりと開瞼された。黒い瞳に光が灯る。
焦点の合わない視界のまま、思考もピントが合ってないようで、しばらくボーっとしていた。ふふふ、なんか可笑しい。
私の姿を確認すると緩慢な動作で手を伸ばしてきた。少し足りない距離だったので、私が間を詰めて近寄ってあげる。
彼の手が届いた所で、腕をぐっと引き寄せられて、腰元に抱きつかれた。わっ、びびった。
「尊さん、・・・私、尊さんに大切な話があってきたの。」
彼が口を開く前に、先手必勝とばかりにさっさと謝ってしまおうと思った。だからまくし立てるように早口で言ったのに。
「いやだ。」
「え?」
何が嫌なのよ。私と仲直りはしたくないとお言いですかな、愛しい彼氏さん。
「別れ話なら聞かない。僕はひふみを手放すつもりはないから。」
なにを勘違いしてるんだ、この男は。・・・でもまあ(一方的にだけど)喧嘩状態のあとの「大事な話」ってのは少々紛らわしかったかもしれない。けれど、この勘違いで私の不安は払拭された。尊さんは今でも私を必要としてくれている。
「菱和の話は聞いた。菱和は子供の頃から親が決めてた婚約者だけど、一度だって好意を持ったことはないし、従妹以上にも見たことはない。だって、あいつの愛情表現は酷いんだ。小さい頃から何度泣かされたことか・・・。」
そういって尊さんは身震いした。ああ、あの人の根性悪は尊さんでもってしても受け止められないのね。しかもトラウマなのね。ぷぷぷ・・・お・・・可笑しい。笑っちゃ悪いけど、今度日を改めて詳細を聞かせてもらおう。
特に見家菱和に関しては気にしてなかったけど、彼の話すままに聞いてあげよう。
「僕だってそれなりに女性関係はあったけど、今回菱和がひふみにしたような、ひふみを煩わせるようなことはもうないから。」
それは間男ならぬ間女の出現ですか?隠し子の話ですか?
そんなもん、二度も三度もあってたまるか!!

「僕はひふみしかいらない。昔も今も、キミだけが愛しい。」
尊さんは顔を上げて私を覗きこむ。私も、今も昔も、アナタだけが愛しいの。
「小さい頃はただの家族愛的なものだった。けれど小さいキミは可愛くて可愛くて、実の親兄弟にすら抱いたことのない深い愛情をキミには注いだ。」
懐かしく眼を細める彼の脳裏には、私の幼い頃が映っているのだろう。私ははっきりとは覚えていないけれど、大好きな優しいお兄ちゃんとして、彼の幼い頃を記憶している。刷り込みのように彼の後を追って、彼にまとわりついて、幼い私の最上級の好きをあげたとしてもそれはなんら不思議ではないなりゆき。
「しばらく会わないうちにすっかり大きくなって、僕の心は囚われた。だけどキミは僕より十も離れた中学生で、もっと大人になってからでないと近づくことすらいけないと思った。」
うん、あのお葬式のときって、私が13で尊さんが22だっけ?中学2年生と社会人1年生、立派な犯罪ね!今でも犯罪だけど!社会の視線が違うわよね、尊さんは前者でも後者でも立派な大人だけど、中学2年と高校1年を相手にするのではちょっと印象が違うんでない?
まあ、当時私になにかしてたら完全に訴えてやる所だけど、今なら合意にしてあげないこともない。ただでは済まさないけど。
「もう少し、あと少しは待つつもりだったんだ。本当は。・・・だけど、あの日、ひふみを見つけて連れて帰った日。」
葎屋さんとの見合いの前日ね。あれから始まった。私が飛び出さなければ、私はここにはいなかった。
尊さんの腕に力がこもり、私の体を締め付ける。まるで次の言葉を表す様に。

「一度近しく触れてしまったら、もう手放せなくなった。」

すがるような眼で、泣きそうな顔で、なんて弱い人だろう。
私を見上げる彼の頬に手を滑らせて、その唇に、触れるだけのキスを贈る。
顔を離すと、目を見開いて驚く表情の尊さんがそこに。

・・・してやったり。







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