46.崩壊


状況の悪くなった大人は引き際が早い。見家菱和は早々に戦線離脱し、適当な言い訳をして私の前から去った。
それでも最後のひと睨みは忘れない、根っからのイライザ(キャンディキャンディ)タイプと見える。改心しない意地悪根性。
見家菱和が去ったあと、カフェの空気が静か過ぎることに気がついた私は居た堪れなくなって慌てて席を立った。
動いた拍子に毛先から冷水の雫が零れ落ち、同時に「えきしっ」と変わったくしゃみを発してしまった。
見家菱和を言い負かすのに必死ですっかり忘れていたけれど、頭から水を被っていたんだっけ。
それも店内の冷房に冷やされて、いつの間にか身体も冷え切っている。
これじゃあ風邪をひいてしまうし、せっかく着てきた服も台無しだ。
悪寒に身体を震わせながら、私は出口に向かった。
お代はお連れの大人様が払って行ってくださった。まあそれくらいはしていただいて当然よね。普通でも大人が15の小娘と割り勘だなんて器が小さいわよね。

「あの、よかったらコレ。」
すれ違い際に店員さんに真っ白タオルを支給された。
同情の詰まった眼差しを、全店員さんから送られる。他の客も然り。
「ああ、ドウモ・・・。」
ファーファのようなふんわり感触。柔軟材使ってるな。やわらけー。
私が店員さんからタオルを受け取ると、どこからともなく手を叩く音が聞こえた。
それは段々数を増していき、店員や客がほぼ全員私に拍手喝采である。
うわ、引く。
「アナタ、まだ若いのに頑張ったわね!」
「カッコよかったわよ!」
塩沢とき並みのゴテゴテ眼鏡の有閑マダムから、神戸巻きのお姉さんからいろいろ叱咤激励されたが、嬉しいどころが逆に恥ずかしい・・・。この人たち全員にさっきのバトルを見られてたって事なのよね。ひー、生き恥。
もう二度と、ここには来ない!!!
頭からタオルをかぶって、赤面しながら私は拍手喝采を後にした。


店内はオープンテラスとはいえ、クーラーがよく利いていたので身体もよく冷えたけれど、外はセミすら鳴かない炎天下。
水分の蒸発は早いと見える。
ぶらりぶらりと歩いているうちにカラカラに干からびることでしょうよ。
さて、これからどうしたものか。

正直な話、今の時点で尊さんの家に戻りたくはない。
今日の出来事を私は一生言いたくはない。なんだか告げ口するようで、気分が悪いし、あんな人でも尊さんを好きな気持ちは本物だったんだろう。私には分からない大人の事情があるのかもしれないし、好きな人にあんな醜態を知られるのはあんな人でも少しかわいそうだ。それが自業自得であろうとも。
だから今の私の状況を見れば、きっと尊さんは核心まではつかないであろうとも何かがあったと勘ぐるはず。
それに、今まで気付かなかった、気付かない振りをしていた。
見家菱和のせいで改めて気付かされた、尊さんの大人の事情。
まあ、彼もねえ、私よりも10年多く生きてらっしゃいますし、それなりに人間関係もおありでしょうから、さすがに私がお付き合い第一号とまでは言いません。見家菱和さんという婚約者さんもいらっしゃったそうですし。
そう考えると、そういう訳で、ああ、なんだか胃がむかむかしてきた・・・。
一気に気分が急降下。私の周りにだけ曇天が舞い降りる。
そして男の人だし、私みたいな子供じゃないから、手を繋いで満足。・・・でもないんだろうなあ。

その先を、求めているのだろうか。

自分の考えに頬が熱くなる。けれど嫌悪感も拭えない。
この先ずっとこの関係が続いていくのであれば、そういうこともあり得るだろう。私だって大人になるんだからそういうことを受け入れて、この先、ずっと先を歩んでいくはず。
けれど今はまだ、考えられない。
私の生活にかけ離れた事柄として、現実味のない、本やテレビの中の出来事のよう。
私に降りかかる事項と考えた時、嫌悪感で身が震える。吐き気すらする。
きっと今、あの人に会ったなら、この感情をぶつけてしまいそうで、恐ろしい。
何も告げずに一度帰ろう。

「ひふみ。」
帰ろうと思ったところで、どうしてこの人は間が悪い・・・。

振り返りたくない。近づかないで。触れないで。
けれど彼は愛しい人。
少なからず傷ついた私の心は彼を求めている。
振り返った私の姿に尊さんは安堵の息を漏らす。声をかけた姿が探し人だったという安堵か、私を探し当てた安堵か。
今日見た彼の姿は遠目に眠る姿だけ。動く尊さんは新鮮で、すぐに私の心はとらわれる。
この人が好きだ。
けれど触れられることを厭う私の体は、彼が近づくたびに半歩後退る。

私から一メートルほどの場所で立ち止まった尊さんは、私の様子に不審に思ったのか、眉根を寄せて訝しげにこちらを覗く。
「探してたんだ。菱和と一緒にどこかへ行くだなんて、書いてあったから。」
心配してたんだ。というニュアンスも感じ取れる彼の言葉は、もしかすると見家菱和と言う人のやらかしそうなことを理解してるのかもしれない。
「髪が濡れてる・・・。」
もう殆ど乾いてたはずなのに、少しだけ湿りを帯びた私の髪の毛を指摘する。指摘するだけで何も言わない彼には、わかったのだろうか、さっきあった出来ごとが。
「僕んち、帰ろう?」
そう言われて、間合いを詰めて私の腕を取ろうとした彼の手が私の視界に入る。

一瞬にして襲う嫌悪感。
そして、恐怖。

「いやっ、さわらないで!!」
ヒステリックに叫ぶ私の声が路上に響いた。
同時に彼の手を振り払う乾いた音。

振り仰ぎ見た尊さんの顔を、私はいつまでも覚えている。

そして私は逃げ出した。







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