39.脱兎


勢いにまかせて尊さんを押し倒したあとは、とんでもない後悔の嵐だった。
どどどどどどどうしよう・・・。引っ込みがつかないよ。
しばらく抱き合ったままだったけれど、我に返るとなんて状況!お父さんが見たら泡吹いて倒れちゃうかも!!
しかも尊さんがなかなか手を放してくれない。
「た・・・・・尊さん・・・・・・。放してください・・・・・。」
戸惑いがちに掛けた声は震えていて、きっと彼にも気付かれた。
「ああ、うん。」
でも彼の声は全くいつも通りで、すんなり放してくれた手も起き上がった表情も、全くいつもと変わりなく、むしろ表情のない顔だった。
動揺したのは私だけ?
なんだか悔しくて、無表情に天井を見上げる尊さんの視界に無理矢理入ってやった。
立ったまま彼の肩に手をついて、彼の顔を覗き込んだら、今しがた気づいたと言わんばかりに彼の焦点が合って私の名を呼んだ。
私はずっと尊さんの事だけ、尊さんのことばかり考えてたのに、尊さんは何を考えてたっていうの?
私のことを忘れるくらい、何かよそ事考えてたの?
・・・・・・・はらわたが煮えくり返る。

私は尊さんのほっぺに手を掛けて、思いっきりつねってやった。
存外に柔らかい彼の頬肉に少しうっとりとしてしまったけれど、彼の痛がる声を聞いて溜飲が下がった、
「なにす・・・」
私の腕を捕らえようとした尊さんの手をするりとかわし、私は鞄を引っつかんで玄関に逃げる。
「尊さんのアホーーー!!もう知らん!」
彼氏彼女になったのに、お付き合いするって言ったのに、私の事考えてくれない男に用があるか!
「!待って、ふみ!!」
彼が慌てて追いかけてくるのが廊下に響く声で分かった。
ひえー。追いかけられれば逃げたくなるのは人の真理。段々近づく声に、心がはやる。靴を履く手が震えていつもより時間がかかってしまう。

ようやく履けたのに、ドアノブを掴む手は寸でのところで彼に捕られてしまった。
追いかけてこないのは腹立たしいことこの上ないけど、だからと言って追いつかれたいとは思ってなかった。
だって、どんな顔していいのか分からない。
さっきの抱きついたこともそうだし、一人で傷ついて怒ってほっぺつねって逃げて、めまぐるしく動き回る私の感情にきっと彼はついていけないんじゃないかと思った。
だから左手を捕らえられた今も、彼の視線に自分のそれを合わせることも出来ないまま、私は背中を玄関の扉に預けて時間がただ過ぎるのを待っていた。
「痛かった。」
沈黙は予想の程はなく、尊さんの非難する声がぽつりと私の耳に届いた。
でも私は悪くない。尊さんが悪いんだもん。
顎を逸らせて余計にそっぽを向く。
すると今度はつかまれた左手に力が入って、私は尊さんの腕の中にいた。
「申し訳ありませんでした。」
「なにが。」
内心はどきどきしっぱなしの心臓を抑えるのに精一杯だったけど、理性は彼の謝罪の言葉を冷たく突き放す。
「ふみから抱きついてくれたのに、上の空で。」
ほほう、ほうほう、分かってるんじゃないの。しかも本当に上の空だったんだ!ムカー。
「いや、上の空と言いますか、でも、考えてたのはふみのことだったんだけど・・・。」
腕の中の私が放つ負のオーラに気付いたのか、尊さんは慌てて言い訳をしだした。ふん、言い逃れができるのならばやってみなさいよ。
くいっと見上げた尊さんの顔は焦った表情だったのに、私の顔を見るなりはにかんで、なによ、可愛いじゃない・・・。
私のほうが、顔を赤くしてどうするのよ!

「なんていうか、あんな小さかった子が、こんなに大きくなったのか〜って思うと感慨深くて・・・。」
「は。」
生暖かい目で見ないでよ。親戚のおじさん臭いこと言わないでよ。げーんーめーつー!!
「それで何?尊さんはそんな小さかった子供と付き合うことに些かの戸惑いを感じてるわけですか?」
勢いに任せていつも思っている疑問をぶつけてみた。
すると彼はきょとんとした顔で。
「そんなこと考えたこともないよ。小さかったふみと、今のふみは同じだけど全く別物。僕がお付き合いする佐想ひふみさんは子供なんかじゃありませんよ。」
にっこり笑う。わけが分からないけれど、まあ私のことに関して躊躇はないようだ。
私的には嬉しい言葉なんだけれど、捕まっても知らないよ。

「怒らせたお詫びになにか作ってあげるよ。お腹すいてるだろう?」

「ミックスジュースを所望します。」







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