38.彼氏


「やっぱりね、婚約の話はなかったことにしようと思うんだ。」

部屋に入ってソファに座らされ、私の前に跪いた彼は、手を取って真摯に瞳を見上げた。
え・・・・・?
どうして?どうして?
やっぱり私の事なんて、子供だから嫌になっちゃったの?
心臓が潰れそうになるのを抑える術を私は知らない。
苦しい・・・。心臓が縮んでしぼんでなくなってしまいそうで、けれどどうしたらこの苦しさから抜け出せるのか分からない。
知らずにポロポロと涙が溢れ、私の手を包む尊さんの手の甲を濡らした。
「ど、どど・・どうして泣くの!?」
私の涙にぎょっとした尊さんが慌てふためいた声をあげた。
どうして、なんて私の台詞なのに。
声に出したいけれど、嗚咽に遮られては言葉にならない。
私も彼も諦めて、落ち着くまでは沈黙を貫いた。
どうも私の泣く姿が苦手なのか、はたまた泣かれること自体が苦手なのか、尊さんは落ち着かず視線を絶えず泳がしている。けれどどこにも行かないで、じっと私の手を握って待っていた。

「ど・・・して、・・・なかったことに・・・な・・て言うの。」
ようやく出せた言葉はまだ嗚咽が残っていたけれど、尊さんは充分理解してくれた。
「ひふみがあまり乗り気じゃなかったから。」
簡潔な答え。
確かにそうだけれど、だからってあっさり白紙に戻されて、私の気持ちはどうなるの?
「けど・・・、」
少し口の端を緩めて、包んでいた手を持ち上げると、彼は私の右手に唇を落として再び見上げた。
「泣いてくれたのは、僕が惜しくなったから?」
ここで素直にならなくちゃ、手に入るものも手に入らない。そんな考えがよぎった。
「私が乗り気じゃないからって、そんなに簡単に諦めちゃうの?結婚するまでに私をその気にさせる、とか格好良いこと言ってくれないの?優しいだけじゃ、何も手に入らないんだから。」
素直になりすぎたーーーーーーー!!!
言った直後に後悔しても、時すでに遅し。
目の前の人は、目を丸くしたあと、それはそれは嬉しそうに微笑んだのでした。

「ふみがもうその気みたいだから、今度両親と挨拶に行くよ。」
私の手を勝手に自分の頬に添えて、恋人のように私の手をもてあそぶ。手のひらに指に唇が触れて、そこに熱が生まれる。
自分の言ってしまったことに半ば呆然として、彼の行為を止めることさえ忘れていた。
「婚約を白紙にしたからと言って、僕がひふみを諦めたと思ってた?」
耳に心地よく響く彼の声。
別段良い声でもないけれど、私には胸を熱くさせる魔法の声なのだ。
その声で笑って、私の耳朶を打つ。
「ふみはまだ15だから、結婚なんてまだ現実味のないずっと未来のことなんだって気付いた。僕がキミくらいの年の頃は何をしていただろって考えたら、婚約なんて話はちょっと可哀相だったかな、なんて思って。」
尊さんのそんな年の頃なんて想像できないけれど、きっと彼にもあった少年時代なのね。
そうよ、いくらお嬢様学校に通ってて、周りには婚約者のいる娘も中にはいるわよ。でも私はまだそんなこと考えられない。
誰かとお付き合いもしたことないのに、一足飛びで婚約・結婚だなんて年頃の女の子がそう簡単に享受できるものじゃない。
「だから、まずは僕とお付き合いしましょう、婚約の話は一切抜きで。という話をしようと思っていたのに。」
いきなり泣き出すから、と彼は少し困った顔で緩く笑った。
それで最初の言葉になるのね。それならそうともう少し誤解のまねかない言い方してください。
「じゃあ、まずはお付き合いだけにしてください。尊さんだって、私なんかと婚約なんて早まったことして、あとで子供だって幻滅しても遅いのよ、佐想を相手に軽々しく解消なんてできないのよ。世間体も悪いし、評判も落ちるわ。だから婚約の話はもっとずっと先の話にしてください。」
お願いします。
私は想像し得るかぎりのデメリットを挙げ連ねたけれど、たぶん彼にはそんなことわかりきったことなんだろう。でも言わずにはおれない。
逃した魚は大きかった、などと後悔はしたくない。この人と縁を切っては私は絶対に後悔する、それだけは分かってる。
けど、まずは幼い私に合わせてくれたって良いでしょう?
私の淡い夢に応えてくれても良いでしょう?
「いいよ。初めから、やり直そう。ちゃんとご挨拶はするけれど、キミの心が決まるまで婚約の話は保留。会えない日は電話をかけるよ。休みの日はどこかへ出かけよう。ふみの望むお付き合いをしよう。」
どうして私にここまでしてくれるのだろう。
片隅でそう思いながら、私は舞い上がる心を抑えられない。
衝動的に私は尊さんに抱きついて、勢いに負けた彼は床に倒れる。
彼には私の心なんて、もう分かってるんだ。だからわがままに合わせてくれるのかな?

私達はしばらく抱き合ったままで、床に倒れていた。







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