37.私だけの笑顔
葎屋さんと別れた後、私はミックスジュースの歌を口ずさみながら鞄を振り回してスキップを踏んでいた。
ミックスジュースを口実に会いに行くからなのか、ミックスジュースを飲めるから嬉しいのか、判然としない私の心は只今軽快に拍を刻んでいる。
最近思い悩んでいたことも、少し軽くなったので足取りも軽い。
尊さんのマンションのエントランスに近づくと、心臓がドキドキするのに気が付いた。
すごく緊張している自分がいる。
冷や汗が流れて、手に汗を握っていた。
あの日と同じ、尊さんの部屋番号を押すと緩いチャイム音が響く。
合鍵なんて貰ってませんよ!そんなの貰うような仲になってませんからね!
たとえ渡されても受け取りませんよ!尊さんの家に用事なんてありませんもの!!そそそそんなふしだらな!!
・・・・・・・・・・・・
しばらく待っても部屋の主は出てこない。
もう一度、呼び出してみる。
緩いチャイム音はすれども、目的の人は出てこない。
なんで?
首を傾げて、ふと視線を走らせた。
壁の高い位置に大判の時計がぶら下がっている。
時刻は午後6時30分を少し過ぎた頃。
はて、一般的な社会人の終業時間というのはいつなのだろうか。
バブリーな時代は「アフターファイブ」と言う言葉があったように、仕事は午後5時で終わるものじゃなかろうか。
ああ、もしかしたら仕事帰りにどこかで食事や飲酒やらにめぐっているのかも。彼にも人付き合いと言うものがありますから。
高校生の私なんかよりも、大人のあの人には人付き合いは大切だって知ってる。
私をここへ連れ帰った時も、付き合いで飲みに行った先で見つけたって言ってたもの。
どんな所か知らないけれど、きっと綺麗な大人の女の人がいっぱいいるんだわっ。
お水のオネーサンって垢抜けてて小奇麗だもの。
一気に気分が沈むのを感じた。
あ、やだ。今すごく嫌な気分だ。
私が15歳の子供であることは変えようのない事なのに、自分の年齢を嘆いている。
あの人に釣り合うような大人には、一足飛びではなれないのに、気持ちは焦って、それでもどうにもならない現実がもどかしい。
きっと今、彼は私の知らない世界で、私の知らない人と、私に向けたあの笑顔を振りまいているんだ。
私には、あの人の家で待っていることも出来ないし、あの人に会わずに家に帰ろうという決断も出来ない。
会えなければ余計に会いたいと、思ってしまう。
そして、私にはここで待っているしか術を知らない。
だんだん深みにはまっていく自分に私はまだ気付かない。
「ふみ、風邪をひくよ。」
ほわんと温かい体温に揺さぶられ、薄っすら目を開けると会いたかった人がいた。
エントランスのソファは悪くない座り心地で、彼を待っている間にうとうとと眠ってしまったようだ。
寝起きはどうも思考がハッキリしないようで、薄らぼんやりとしながら間近に微笑むあの人の首に腕を回した。
「どうかした?」
普段ならネタでもない限り、自分から抱きつくなんて恥ずかしくて出来るはずもない私の行動に、尊さんは何かを分かってくれた。
けれど私からはとても言えない。
私の中のあんな思いなんて、この人に失望されたくない。
「・・・会いたかったの。」
今は過剰な触れ合いも、照れくさい本心も、素直にできる。
この人がきょとんとした後に、嬉しそうに微笑む姿を、独り占めしたいと思った。
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