30.狂犬の乙女


「なにも横っ面を叩くことはないと思う。」
「知らないっ」

不貞腐った顔で自分の左頬を手で覆う尊さんに、私は憤懣やるかたなく顔を背けた。
彼の手の下は私のもみじが綺麗に痕を残している。
いい気味だわ、ざまあ見ろ。
あらいやだ、口が悪いホホホ。

「鼻は不満でしたか、それじゃあご期待に応えて・・・。」
「ぎゃーーーーー!!!」
楽しそうな笑みを浮かべながら寄って来ないで!
こんな他愛ないじゃれあいも嬉しいんですって全身で訴えてこないで。
どう応えていいのかわからないのに・・・。

こんな幸せは私には過ぎたものなのに・・・。


「ほら、また不幸な顔をしている。」
「え?」
結局ソファに押し倒されて、彼の顔を見上げた。影になって判然としない表情、声にそれは窺えない。
「独占欲を訴える男のように言うならば、『俺以外の男のことなんか考えるな。』かな。」
「何言って・・・」
私の思考は私のものだわ、他人にとやかく言われる筋合いはミジンコの毛先ほどもない。
彼が仮定とした上での発言であったので、些か本心かは判然としない台詞に、それでも頬が熱くなった。
一方では干渉されるのを嫌い、一方では束縛にときめいて、なんて矛盾した心なんだろう。
こうして心がかき乱されて、どんどん惹かれていくのかしら。

「僕の可愛いふみに、少しだけ時間をあげる。」
唐突な彼の申し出に、何のことか分からずポカンと見上げるだけにとどまった。
「『ぼくのかわいいふみ』って、なんだか娘を溺愛するアメリカホームドラマのお父さんみたいね。」
全くときめかなかった言葉を捉えて口を尖らせてみた。ムードが台無しじゃない?
そう?と笑いながら、彼は身を起こし、私の手を引っ張った。彼の引き寄せる引力に、私の上半身が楽に上がってソファの元の位置におさまった。
「彼のことを気にして、僕を蔑ろにされては寂しいから。彼に会って話を聞いて、キミの好きなように協力なりなんなりしてごらん?それまでこの話は保留にしておいてあげるよ。」
「どうして私が葎屋さんのこと気にしてるなんて思うのよ。あなたと婚約することに対して将来に不安を感じてるとかは考えないわけ?」
葎屋さんに負い目があるのは認めよう。けれど私の言った事も事実。
私は不安なのだ。
まだ16にもなってないのに、将来の一大事を早々に決めてしまっていいものなのか。
私は本当に、この人を信頼できるのだろうか。まだ会って間もないこの人の私は何を知っているのか。
私だって、高校を卒業したら、普通に大学に入って、友達と楽しいこといっぱいするんだって夢もあったのに。今こんなことになったら、そういうの全部できなくなるんじゃないかな。
考え出したら止まらない。
負の淀みは際限なく広がり、汚泥と化す。
腹の底にたまり続け、いつかはち切れるまで気付かない振りをしなければならないんじゃないか。

「それは大丈夫だ。」
「どうしてそんなこと言えるのよう。」
自信満々でっ。
「今現在不安に思えても、この先きっと後悔しない。僕が、後悔させないよ。」
・・・・・・・・。
「・・・・・すごい殺し文句。」
ときめくよりも、呆れてぐうの音も出ない。
「そっ・・それに、葎屋さんに会って、私が葎屋さんに心変わりするとか、考えないわけ?」
自分のことだけど、人の心は移ろい易いものだもの。ああ、そんなことになったら私はただの尻軽女だわ。それ以前に彼に負い目を感じてる私に再び恋心が湧くかははなはだ疑問だけど。
「本当は、婚約のするしないを保留にしたところで、ただ先延ばしにしたのと同じだと思ってる。だって、ふみは僕のことかなり好きだろう?」
「ぎゃーーーーーーーーー!!!!」
バチーーーーーーーーーン!!!!

にっこり笑った自信満々の顔を殴ってやりたい衝動に駆られたので、本日二発目をお見舞い。
ええ、ええ、好きですよ。戸惑うくらいに。
でも認めるのは恥ずかしい。恥ずかしさで人を殴れるくらい、感情にセーブが出来ないものなのよ、思春期の乙女はっ!

「また横っ面を・・・。」
右頬を手で覆ったその下は、きっと左頬とお揃いの、もみじが一つ。
お、男が殴られたからってぐだぐだ言わない!所詮は女の力なんだからなおさらよ!







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