10.心の曇天
「ところで、ひふみちゃん。お料理できるかしら?」
寝室の扉をくぐって、内丸女史の背中について行く道中、おもむろに聞かれた。
「あ、出来なくても別に気にするようなことじゃないのよ。ひふみちゃん家みたいな大きなお家のお嬢さんならそれが普通だから。」
振り向く女史は何故か照れくさそうで、私はサッパリ意図することが分からなかった。
「家事全般はさすがにしてませんが、ウチは母が標準家庭出身なので、料理は一通り仕込まれました。母が他界してからは夕食のみですが妹と作ってます。」
「あら、そうなの。若いのに偉いわね。」
ちょっとおばさん臭く冗談めかして言うのは、女史の小さな心遣いなのだと思った。
高校生に母親と死に別れてるということを話させてしまったのが、大人としてばつが悪くあるのだろう。
母が亡くなってもうすぐ二年。
もうそんなになるのか。
あの時の彼は今どうしてるだろう。
名前も忘れてしまった、思い違いに怨んでしまったあの人。
私はいつでも大切なことを忘れてばかりいる。
昨日の記憶も、大切な彼の名前も。
「ひふみちゃん?」
呼ばれて我に返った。
いつの間にかそこはリビングで、その向こうにキッチンがある。
「ああ、すみません。ちょっと考え事をしてました。内丸さんどうかしましたか?」
「紅子でいいわよ。それより、ひふみちゃん。朝ごはん作ってくれない?」
さっきの照れた笑いを浮かべて、紅子さんはおねだりした。
美人さんのおねだりは反則でしょう。
「私さ、てんで家事全般できないのよね。」
見るからにそんな感じです。
紅子さんの外見で、料理まで出来たらそれこそ反則です。
「でも店屋物とか外食が大嫌いなのよね。自分の信用する人の料理しか食べられないの。」
野良猫のようですね。
「普段はどうしてるんですか。」
「実家に住んでるから、親に作ってもらうわよ。この歳で。」
顔をゆがめて言う。料理も満足に出来ず、結婚もしないで実家住まいであることに引け目は感じているらしい。
バリバリのキャリアウーマンっぽいんだから別に良いと思うんだけどなあ。
そこはやはり大人の事情なのだろう、高校生には分からない気持ちだ。
「あとはここで食べたり・・・・っと・・・。」
失言。と紅子さんは口を押さえたけれど、私を気遣う事はないのに。
別に、何もないもの。
あの人が紅子さんに信用されててご飯を作るような仲であろうとも、私には関係のない事だもの。
なのに、ものすごく腹が立つ。
ああ、嫌だこんな気持ち。
「私の料理は食べられるんですか?」
とげのある言い方になってしまった。嫌だな、きっと今不細工な顔になってるんだろうな。
「ひふみちゃんなら大丈夫。今ここで知り合って、これからきっと長い付き合いになるわ。」
だから手料理食べさせて。
美人のおねだりには逆らえない。
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