第十五話


それは見事なイチョウ並木だった。

場所を変えようと提案したウチに、佐想友三さんが案内したんは座敷の奥。ずっと奥に進んだ先に、また一つ庭があった。佐想さんが障子を開けるとそこには青々と生い茂るイチョウの並木道。
夏の風に吹かれて葉がサラサラと鳴った。
「すごい・・・」
ウチは感嘆の声しかあげられへんくって、視線は延々と続く並木道のイチョウに釘付けやった。
「すごいやろ、うちの両親がコレだけは譲れんって言うて作ったんや・・・・・・って!なに泣いてんねん!!?」
気付かんかった。
頬を伝う熱い涙に。
あたふたと戸惑う佐想さんを前に、どうしても止まらん涙は次から次へと溢れてきて、もうどうにもでけん。
どうにもでけんもんをどうとすることもできひんから、佐想さんはしばらく忙しなく振り上げてた腕をようやっと下ろした。
「・・・帰りたい。」
ウチの小さい声が、佐想さんの耳に届いたみたいで、彼はピクリと反応してくれた。
帰りたい。
イチョウの並木のあの街へ。
生まれ育った心のふるさと。

家族は共に移り住んだといえども、ノスタルジーを感じるのはいつもあの世界。
ネオン輝く賑やかで雑然とした街と人間性。だけれどそれが全てではない。
夕暮れに染まるイチョウの葉が舞い落ちる中、独特のにおいを漂わせ、妹と銀杏を拾い集めた。
落ちたての葉を拾えばまだ瑞々しく、ひんやりと心地良くて。
大通りにどこまでも続く黄色の世界は、昼間の喧騒の中だというのにどこか哀愁を醸し出していた。

ああ、
「帰りたい。」
帰りたい。

立っていられなくなって、ウチは板の間にしゃがみ込む。
そしたら上からふんわりと包まれて。
「アンタが帰る言うんやったら俺も一緒に行く。」
は?
「アンタが寂しいと思うんやったら、俺にできる範囲でなんでもしたる。」
顔を上げて見た。
「あんたが見たない言うんやったら、このイチョウ全部抜くし。」
そ・・・!それはアカン!
「せやから・・・」
こんな顔は初めて見た。眉根を寄せて、泣きそうな顔。弱い男の顔。
「ひとりでどっか、いかんといてくれ。」
懇願されるのが、これほど気持ちの良いものとは・・・。
思わず無条件に頷いてしまいそうになる。


「いつかは、帰りたいと。いつでもそう思って暮らしてる。余所の土地で生きていくために、違う自分を一枚かぶって生活してるんよ。だから、ウチがウチでいられるのは、あの街しかない。」
アイデンティティと言えばそれほど大層なものでもないような気もするし、もっと大切なもののようにも思える。
イチョウの庭に面した縁側に、腰を下ろして二人で風に流れる青葉を見ていた。
時折隣の彼がウチの方に視線を寄越すけど、ウチはそれを視界の端に感じて視線はずっと青葉のイチョウに。
「帰るんか・・・?」
躊躇いがちに掛けられた声に、視線を移す。ウチの手を取って、指先に感じる熱は唇から。
僅かに震えて口を開く、予想外に冷たい吐息。
「俺の傍には居てくれへん・・・?」
「さあ。」
気のない返事に彼の眉尻が僅かに動いた。ウチは苦く笑って視線を再び庭に戻した。
きっとこの人にはウチの気持ちなんかバレバレなんやろう。自惚れてるけど真実やから、まあしゃあない。

「正直、今でも帰りたいかと言われたら帰りたい。せやけど以前ほどあの街に執着はしてない・・・と思う。このイチョウを見て、懐かしさから気分が昂ったけど、感じるのは郷愁やし。たぶん、前は素の自分が出されへんかったから、それができるんはあそこでだけやって固執するあまり余計にストレスを感じてたんやろうね。」
せやから誰にも彼にも大阪弁出して喋ったことなんかなかった。
それはきっと私なりの心の壁なんやろう。
そう考えると、目の前のこの人は自らが大阪弁を喋ることを差し引いても、最初から距離を置くことなんかしてなかった。
初対面の最初っから、暴言吐きまくって、素の自分をさらけ出してた。
もういいかもしれん。
これは妥協じゃないから。
いつまでも自分の気持ちに意地を張ってることもない。
この人は何度もウチを求めてくれた。何度拒否を唱えても、ウチのことを好いてくれた。
きっと信じられる。
飽きられたって食らい付いていけばいい。ウチが求め続ければ、また振り向いてもらえる。
尻込みしてた金持ちの世界だって、ここの家族には微塵も感じん。
さっき『お嫁にきてもいいかなあ』って思ったとこやし。
嫁云々は先の話として。
とりあえずは。

・・・でもなんと答えてよいのやら。
さっき曖昧に答えてしまったばっかりに、手のひらを返したように態度を変えるのは些かの抵抗がある。

「俺はこのイチョウの庭が凄い好き。」
モゴモゴと言葉を選んでたら向こうから切り出された。
「小さい頃から、家が変ろうと土地が変ろうと、イチョウの木は家のどっかにあって、やっぱり俺もイチョウにはノスタルジーを感じるよ。」
ふと見た横顔は、長い睫毛が伏せられて、そよそよと風に毛先を遊ばれながらイチョウに送る眼差しはとんでもなく優しい色をしていた。
「表の庭は10円玉みたくなってるやろ?あんなんは好かん。親父のウケ狙いであっこまでしよってん、味も趣もあったもんちゃう。」
あ、やっぱりウケ狙いなんや。
「近いうちにこの家建て替えるんやけど、俺が設計すんねん。このイチョウは残して、もっと緑の多い森みたいな庭にしようと思ってる。大きい木をそのまま持ってくるんはさすがに金掛かるし、今は小さい苗木でもこの先の未来に森を作りたい。」
俺はこの家にずっと住むつもりやから、と未来予想図に一人で思いを馳せている。
きっとこの家には子供がいっぱいできて、木が乱立する庭を騒がしく駆け巡るんやろう。
「ウチもそれを見たい。」
きっと幸せな光景。
「さわ・・・っ、・・・やまと・・・さん?」
ここで言わな、女が廃る!できひんかったことを一生後悔するよりもやることやって後悔したほうがなんぼかマシ。
ウチは自分から佐想さんの手を強く握った。
「あなたの作る未来の庭を、私にも見せてくれますか。」
郷愁を埋めてくれるものを与えてくれますか。

隣で息を飲む音が聞こえた。
握った指から震えが伝わる。震えているのはウチなのか、彼なのか。


そのあとは沈黙で、赤面しあった二人がぎこちなく座敷に戻ると、赤飯が炊かれてた・・・。




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