第十話


男にとってたぶん物凄い恐ろしいことをウチはしたから、もう二度とウチの前に姿は現さんと思ってたのに。
「沢柳さん、コンニチハー。」
そらもうエエ笑顔で行く手を阻まれたら、呼称も「関西弁のにーさん」から「このアホ」に変ってもなんら不思議ではないと思うねんな。
「なにか用ですか?」
ひつこい男は好かん。せやし、そこをどかんかい、ウチは向こうに用があるんじゃ。
例えなんぼ好きな男でも、うっといことされたら興ざめやで。
「あ、酷いな。もう素で喋ってもくれんのか、こないだのん怒ってんのんか?」
こないだ・・・って。不意に言われて思い出してしもた、頬っぺたが熱なった。
あれから何日もたってるはずやのに、記憶にはまだ新しい。

「いきなりあんなことされて、怒らん女はおらん。」
振り返ってスミクラトモミにめんちきったんやけど、向こうの方がそら背ぇも高うて、ウチの視線はちょうど唇にぶち当たった。かああ、と頭に血が上る。
冷静に、この男を断らなアカンはずやのに、あの感触が蘇ってしもて、ああパンク寸前。
「スマンかった。」
ぐーるぐーると煮えたぎる脳ミソを抱えるウチの頭に、ひんやりとした向こうの声が降ってきた。
目線をあげるとちゃんと頭も下げて、怒られた大型犬のよう。素直に謝るんやったら初めっからすんなよ。いや、謝るなと言うてるわけではないんよ。もっと謝れ、陳謝せい、ひれ伏せ。
「オレ、普段からあんな節操ないことなんかせんからな。」
視線を上げたアホは眉根を寄せて、すがるような眼差し。何を弁解してんねん、当たり前じゃボケ。でもまあ、確かにいきなりあんなことされたら、そういう軽いやつやと思われかねんのは事実やな。
「さわ・・・大和さん。オレ、ホンマにアンタに一目ぼれしてん。せやけどアンタは名前以外自分のこと全然喋らんし、どこの誰かも全然分からんし、諦めた方がええかとも思っててんけど、こないだ、偶然見つけて、すごい・・・興奮した。」
「ちょっと、待て。」
興奮しだすな若人よ。ウチの方が若いけど。
紅潮して身を乗り出すスミクラトモミ氏の眼前に、手のひらを押し出して、告白というか熱い情熱を遮った。
「もうちょい、人の居らん所で聞きますわ。公衆の面前で耐えられる心臓、持ち合わせてませんねん、ウチ。」
ここはキャンパス内。学生の往来ど真ん中。もうちょっと場所を選ぼうや、にーさん。
「あ。」と短く呟いて、周りを見回したスミクラトモミも図太い神経は持ち合わせておらんようで、紅潮してた頬っぺたは一気に血の気が引いていってた。そのあと、かあっと再び頬っぺたに紅が昇る。
視線を泳がして逡巡した後、ウチに向き直って「ほな、場所変えよ。」と手を伸ばしてきた。
ああ、もう。向こうの売店でシャーペンの芯買おうと思ってたんに、また今度やな。シャーペンの中ってあと何本残ってたやろか・・・?
よそ事考えながら、ウチは条件反射のように差し出された手に自分の手を乗せていた。
はっと我に返ったときにはもう握られとって、今更振り払うことなんかできひん。
視線が握られた手に集中する。ぎゅっと握られて、背筋に電流が走った。
大きい男の人の手。うちんとこのお父さんなんかとは全然違う、若々しい張りのある手の甲。
長い指。
歩きもって見とれてたことも、この人が立ち止まるまで気付かんかった。
・・・よだれ、垂らしてへんかったやろか。

足が止まったんは大学構内を出て、最寄り駅までの道中、少し裏通りを入ったところにある小ぢんまりした定食屋やった。
ええええええ、定食屋。
女の子連れてんのに定食屋。
色気のある話をしようというのに定食屋。
こん人ホンマになに考えてるんやろか。フツーの、尚ちゃんみたいな子やたらどつかれて怒って帰ってるとこやで。
・・・ウチはあんま気にせんけどな。

じっと定食屋の紺色ののれんを凝視してたら、前の人はガラガラとけたたましい音を立てて引き戸を開けていた。
手を握ったまんまやから、ウチもそのまま引き入れられてしまう。
入ったとたんにオバチャンっぽい大きい声で「いらっしゃい!」が耳を打った。
「ここの餃子定食、美味いねん。」
振り返ってニコッ。
ウチの頬の筋肉も緩む、ナイス笑顔。
ううう。
「オレのおごり。とりあえず、昼飯食わん?」
餌付け作戦に変更か?
ううううううウチはそないな手ぇには載せられんぞ。ぐぎゅるるるるるるるるる・・・
・・・・・・・・・・・・まあ、そんなにおごりたいって言うんなら、一緒にご飯食べてあげてもいいけど!!
心の中で言い訳かまして、身体は素直に頷いてた。

懐柔されそうやな・・・。




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