溜息を吐きたくなる衝動をなんとかこらえる。今よりも更なる不幸など想像もつかないが、幸せは逃げて欲しくない。盲目的に信じているわけではなかったけれど、今以上に切実に口から漏れる空気を飲み込んだことはないだろう。
鼻歌でも歌いそうなほど機嫌の良い姉の隣で、エオシンは息を殺して馬車に揺られていた。
市街の大通りを脇目もふらずに馬車は王宮へ一直線に走ってく。途中、脱輪でもしてくれないかと呪いながら、エオシンはまた溜息を飲み込んだ。
しかし願いは虚しく、憎らしいくらい無事に馬車は王宮の一角へと到着する。出迎えた侍従がうやうやしく扉を開け、スカーレットはエオシンの腕を取って引きずりおろしたが、エオシンも最後の抵抗とばかりに扉の縁に噛り付く。が、振り返った姉姫の凄まじい眼力にあえなく屈服してしまったのだった。
かくしてエオシンはアズーリ王宮に舞い戻ってきたわけであるが、マゼンタ王女に宛がわれた館の一室に入るなり、姉姫の侍女らに取り囲まれ目を白黒させた。
「え、あの、姉さん?」
戸惑うエオシンを余所に、侍女の輪の向こうから不意にぱちんとはじける音が響いた。どうやら輪の外側でスカーレットが合図に指を鳴らしたらしい。
すると一斉に侍女軍団はエオシンに飛び掛り、あれよあれよと言う間に身ぐるみを剥がされた。
突然のこと、咄嗟に抵抗をしたエオシンだったが、侍女らの鬼気迫る眼光と「大人しくなさいませ!」という叱責に手も足も出なかった。さすが姉姫の侍女たちである。
大人しくなったエオシンにはてきぱきと侍女らの手がのばされていく。コルセットを締められドレスを着せ掛けられ、一方では丹念に髪がくしけずられ結い上げられていく。同時進行で化粧も施され、否応無しにはたかれるおしろいにむせそうになった。
「出来上がりましたわ!!」
侍女たちの晴れやかな声音でようやくエオシンは解放され、やっとのことで深呼吸をした。一息つく間もなく侍女たちが自分たちの成果を見てもらおうと、エオシンを鏡の前に急きたてる。美しい美しいと誉めそやす声を背後にエオシンは姿見の前にそっと立った。
鏡に写る自分の姿を認識した途端、エオシンは口をあけて呆然となった。肩越しに侍女たちが会心の笑みを浮かべて互いに労をねぎらっているのも頷けるほど、エオシンは自分でも綺麗にしてもらったと思う。
スカーレットの妹である自分が不美人だとは思ったことはないが、鏡に問いかけるほど己の容貌が秀でているとも思えない。
だけど今日は思わず「鏡よ鏡……」などと問いかけてしまいそうなほど変貌をとげている。
やはり姉姫には遠く及ばないが、今の自分はいつもの自分よりも格段に美しい。結い上げられた髪は一筋の乱れもなく紅玉のかんざしや金剛石が散りばめられ、光を反射してきらきら輝く。寝起きに無残になった顔も、その痕跡も残さずに再び美しく塗られていた。ちなみに化粧を落とさずに眠って肌荒れもしないのは若さの賜物であるが、化粧担当の侍女がその若き肌に羨望と嫉妬を少なからず抱いたことは、当のエオシンには知る由もない。
浮き立つ気分で自分の綺麗になった顔を眺め回した後、エオシンは着せられたドレスを見下ろし、裾をつまんで少し困惑に眉根を寄せた。
今日のドレスも上等な布地で作られた趣味の良いデザインだ。襟ぐりが大きく開き、腰が引き絞られ緋色のドレープが床に向かって広がっている。涼やかな首もとには紅玉がふんだんにあしらわれた首飾りが華やかさを補っていた。
「良く似合っていてよ、わたくしの可愛いエオシン」
振り返るとスカーレットも衣を改め、夜会ドレスをまとって佇んでいた。
「姉さん、私は姉さんの侍女として舞踏会に付き従うはずではなかったのですか?」
そう言って自分の着ているドレスをエオシンは姉に示して見せた。
緋色の美しいドレスはスカーレットが用意していたものだった。
緋色は故国において直系の王族しか着ることのできない禁色である。その色はマゼンタでしか採取できない植物の根に特殊な薬品を調合して布に定着させるのだとか。代々王室付きの染色技師なるものが長年の技量をもってして染め上げる、大層な品物なのだ。
つまり緋色のドレスを身にまとうことはマゼンタ王女であることを示す。
故国を半ば捨てる覚悟でアズーリにやってきたエオシンは、かれこれ三年ほど人前でこの緋色を着ていない。そしてこれからもこの色は着ないものだと思っていた。
「お前は侍女の真似事をするつもりだったようだけれど、わたくしはして欲しいなど一言も申していなくてよ」
スカーレットは片眉を上げながら近づいてくると、エオシンの額を扇の先でつついた。
「お前はわたくしの可愛い妹なのに、どうして侍女に貶めてまで隠さなければいけないというの」
しかしそう言う姉は緋色ではなく深紅の衣装をまとっているではないか。国外の者からすれば緋色も深紅も違いに意味があるなど分かるはずもないが、知る者が見ればエオシンこそがマゼンタの高貴な姫君――王太子の婚約者だと勘違いをされる。
困惑に揺れる眼差しで姉を見れば、スカーレットは妹の身繕いの出来に満足気な微笑をこぼしていた。
「今さら緋色をまとったところでわたくしの身元はすでに保証されているの。この美貌が何よりの証拠。わたくしは誰もが認めるマゼンタの紅玉。わかって?」
姉姫の深く強い瞳の色にエオシンは否応無しに頷いた。スカーレットが舞踏会最終日にマゼンタ王女の証明とする緋色の衣をまとわない不自然さを感じながらも、エオシンは姉の迫力に飲み込まれ、それ以上の追求ができなかった。蛇に睨まれた蛙のように思考が完全に働かなくなったのだ。
その一連の行動は姉姫の不興を買わぬよう従順に生きてきたエオシンの本能と言えるだろう。
「……はい」
弱々しく頷くとスカーレットは鷹揚に微笑んだ。
姉姫は妹の手を引きもう一方の指を鳴らした。すると侍女らがすかさず部屋の扉を開け放つ。
エオシンは姉姫と共に舞踏会が催される王宮の本館へと出発した。
絨毯の敷かれた廊下には靴音など響かないが、大勢を引き連れて歩くスカーレットたちのドレスが奏でる衣擦れは小気味良く反響したのだった。
広間は熱気と香水の香りでむせ返りそうな空気をはらんでいた。
楽師たちが優雅な楽曲を奏でる一方で、扉の横に立つ従僕は入室者の名と身分を朗々と読み上げていた。紳士淑女が集まっているにもかかわらず、室内は人々の雑談の声で騒然となっており、今宵決まるはずの未来の王妃がどれほど彼らの興味を掻き立てているのかが分かる。
そこへエオシンとスカーレットが入室した瞬間、水を打ったように場は静まり返り、次いで広間全体から熱い溜息が漏れた。
いささか場の空気が止まったことでエオシンは自分が何かしでかしたのかと不安になり、隣の姉姫を窺った。しかしスカーレットは顔色一つ変えることなく、悠々と広間の中を歩いていく。当然エオシンは慌ててそれについて行った。
「まあ、なんて美しい方々かしら」「本当、思わず溜息が出てしまうわ」「不思議な色のお召し物」「マゼンタの王女殿下ですって」「まあ、どうりでお美しい」「あすこはお美しい方が多くてらっしゃるとか」「中でも第一王女はとても美しいそうよ」「まあ、ではあの方が?」「どちらの方かしら?」「姉妹でらっしゃるのかしら?」「良く似ておいでね」「殿下はお選びになるのかしら?」「やはり国内からお選びになるのではないかしら」「お噂に違わぬ美しい方」「アズーリにはない瞳の色ね」「御髪も」「さすが赤の国でらっしゃる」「胸元のルビーの美しさったら」「御髪とお召し物に良く合っていらっしゃるわ」「本当、綺麗」
そこかしこから漏れ聞こえる囁き声が重なり合い、エオシンにはさざなみの幻聴に聞こえる。明確に認識できない言葉はエオシンの劣等感を助長し、ますます心に影を落とす要因になった。
思い溜息を吐き出し、エオシンは藁にも縋る気持ちで姉姫が腰掛けた長椅子の横に座った。
「姉上は気にならないのですか?」
この注目される視線が。明言しないが、不安げに辺りを彷徨うエオシンの瞳はそれを物語っていた。
「気にする程のことではなくてよ。己よりも秀でているからこそ、人は注目するの。意識した時点でその者はわたくしたちを格上だと認めたことになる。堂々としていれば良いの。それに、お前が不安に思うようなことにはなっていなくてよ」
スカーレットは開いた扇で口元を隠し、貴婦人たちの不躾な視線を無駄に怖がる妹姫を嘲笑した。
この羨望の眼差しが、妹には分からないのだろうか。しかしおびえる妹もまた可愛い、とスカーレットはうっとりと隣のエオシンを眺めつつ、浴び慣れた視線を悠々と享受していたのだった。
エオシンが自信を取り戻す暇もなく、突然にしてパンパカパーンと軽快なファンファーレが広間に響いた。それは正に突然のことで、心の準備ができていなかったエオシンはびくりと肩をすくませると、飛び上がって目を見開いた。
「なっ……何事!?」
きょろきょろとトランペットの音楽隊を探し出し、次いで何が起こるのか、平常を保つ姉姫へと視線を走らせた。
「ようやくおでましね」
姉姫は呟きながらおもむろに立ち上がった。周りの紳士淑女たちも雑談をぴたりとやめて、椅子に座っていたものは立ち上がり、皆広間の上座に視線を向けた。
そこには玉座が一つ。そしてその少し後方脇にもう一つの椅子。エオシンの心臓が引きつった。
「国王陛下ならびに王太子殿下の、御成ーーりーー!!」
従僕の声が高く響き、エオシンの息が詰まった。
鼓動が鼓膜を強く打ち鳴らし、脈動は脳を揺さぶるほどに激しく体を駆け巡る。呼吸を忘れたエオシンの世界では、己の心音だけが耳に届く唯一の音となった。
しかし視界はひらけていて色は鮮やかに、一つ一つの動きがゆっくりと感じとられる世界となった。
侍従に付き添われ国王陛下が、そしてそのすぐ後ろに王太子殿下その人が颯爽と上座に着いた。
エオシンの心臓は壊れそうに高鳴っている。昨日まで、すぐ手が届く所にいた人が、今はもう遠い人。濃紺の髪が指通り良いことも、空色の瞳が柔らかく緩むこともエオシンは知っている。確かに昨日までの彼と何も変わらないのに、上段に座する人はアズーリの禁色である群青色の上衣に金色の肩帯を斜め掛けて、そのいでたちは誰が見ても王族の姿であった。
エオシンの知る「サイアン」が紛れもないアズーリの王太子であることを目の当たりにし、彼女は再び足元が崩れ落ちそうな感覚に陥った。
覚束ない足取りで倒れなかったのは、ひとえに隣に立つ姉姫が、エオシンの腕を掴んで体を支えてくれていたからに違いない。
「……姉上」
エオシンはスカーレットを見上げた。姉姫はエオシンのことなど見ておらず、視線は上座に向けたままだったが、この時ほど彼女は姉のことを頼もしく、かつ好意的に思ったことはない。しかし悔しいかな姉は「彼」の婚約者であり立派な恋敵、エオシンの心内は複雑である。
「ついておいでなさい」
唐突にスカーレットは掴んだままのエオシンの腕を引いた。足がもつれそうになるのを何とか解いて、エオシンは何とか転ばずに姉姫の歩調に合わせることに成功した。
なんとも上手に人の隙間を縫い、とエオシンはスカーレットについて共に人の輪の先頭に立った。
そこでまたエオシンは心臓を軋ませることとなる。
そこは玉座の正面で、先ほどの場所よりも更に上座に座る人物の様子が細かに窺えた。
咄嗟にエオシンは顔を伏せた。幸いにして玉座の脇の彼の人は正面を向いていたが、視線は下方を漂い、エオシンの姿を捉えることはなかった。
エオシンは己の願望に抗うことは出来ず、姉姫の影に隠れると恐る恐る面を上げて、彼の様子を窺い見た。
空色の瞳は憂鬱な曇天の重い雲のようであり、もともと色白の頬は上着の色を映しているためか、いつもよりも青褪めて見える。時おり瞳を伏せては組んだ指の上を、憂いを帯びた視線が揺れ動く。
交互に組んだ彼の指は、きつく互いを握り締めて、白い色を呈していた。
予想とは違う彼の、陰鬱とした様子にエオシンは眉根を寄せた。どう見ても彼の顔には不幸の塊が付いている。しばらく凝視してみたものの、エオシンには彼の憂いの理由を推し量ることが出来なかった。なぜなら彼女はサイアンが姉姫に出会い婚約を快諾していると思い込んでいるからだ。そんな彼が浮かない表情をする必要はないはずなのだ。
小首を傾げながらもエオシンの胸は鉛を呑んだかのごとく重たく、そして底冷えする冷気が立ち込めるよう。唇をぎゅっと噛み締めて、我知らず眉尻が下がるのだ。
貴方の浮かない顔を見ていると、私もなんだか悲しい。そんな心境。
サイアンとエオシンの心とは裏腹に、上座のアズーリ王は晴れやかな表情でもって玉座を立った。
そして音吐朗々と舞踏会を開催するに至った大臣たちの奔走をねぎらい、名目上、自分の全快祝いに訪れた賓客たちに感謝の言葉を贈った。
誰もが忘れているが、この舞踏会は国王の床上げが表向きの理由である。しかし艶々とした王の血色にそんな理由を真に受けるものはいない。
「こたびの余の不調で太子にも酷く心労を掛けたことだ」
不意に掛けられた父王からの言葉に浮かない顔だったサイアンは、弾かれたように顔を上げ、曖昧に微笑を返した。そしてその次の瞬間には、彼の顔から表情と言うものが抜け落ちる。
「今まで余の後継としての務めを果たさぬ太子であったが、こたびのことで考えを改めてくれた。この国の行く末を真摯に慮ってくれたことと余はうれしく思う。この場をかりて太子と、太子の心を射止めた姫君との婚約を発表いたす」
父王からの視線を受けて彼は唇を真一文字に引き結ぶと、優雅な所作で自分の席を立った。
――とうとうこの時がきた。
エオシンはその一挙手一投足をつぶさに瞳に捉え、自分の胸を鷲掴んだ。視界の端に姉を写し表情を窺い見たが、彼女はやはり平常を保ったままで眉尻一つ動かさなかった。
その時、周りの耳打ち話のような囁き声がエオシンの耳にも入ってきた。
「王太子殿下が最初にダンスを申し込まれる方が、ご婚約者だとか」
「まあ、すてき」
喜色をにじませた声音で貴婦人が相槌を打っていた。エオシンはぎゅっと己の拳を握り締める。その最初の相手は間違いなく、彼女の隣に佇む姉姫なのだ。
彼はきっと姉姫の前に跪き、うやうやしく手を取りその甲に口付けるに違いない。想像して、エオシンは奥歯を噛み締めた。鼻筋がつんと痛んで、涙が出そうになるのを堪えた。ぐっと我慢すると、脳裏に描いた虚像が薄らいでいくのと同時に、頭の奥へ突き抜ける痛みも治まっていった。
王太子が立ち上がり、場内の誰もが期待に胸を膨らませ、彼に視線を集中させた。国王に促され、彼は王の隣まで歩を進ませると一度立ち止まり、数段下の賓客が並ぶのに視線を走らせた。
エオシンは彼に見つかるのを恐れ、反射的に身をすくませ姉姫の影へさらに隠れた。
しかし心を占める彼の姿を目に焼き付けておきたい衝動はくじかれず、往生ぎわ悪く姉姫の隙間からのぞき見るのだった。その時初めてスカーレットは心底わずらわしそうに表情を崩して妹をねめつけた。しかし妹のほうは己のことに必死で、姉姫が鬼の形相をしていることなどにかまっていられなかったのだった。
場内の注目を一身に受ける中、サイアンは視線を国王に向ける。
アズーリ王がこちらには聞こえない声で息子に声をかけたらしかったのだ。
王の口もとが動くたびにサイアンは眼をしばたいた。まばたきを繰り返すごとに段々と眼が見開かれ、曇天の虹彩の色が再び快晴の空色に戻っていった。
頬には赤みが差し、みるみるうちに血色がよくなった。背筋が心なしか伸び上がり、姿勢のよい立ち姿は大国の太子に相応しい空気をかもしていた。
わずかに震える唇が彼の感情の昂りを表している。彼は何を感激しているのか、エオシンに知るすべはなく、その様子をただ凝視しているしかないのだが、先ほどとは見違えるサイアンの変貌にエオシンは胸を高鳴らせていた。今やすでに溌剌として、彼女が心捕らわれたサイアンに戻っている。
彼の身に何が起こっているのかエオシンには皆目検討もつかない。だがこれだけは分かった。迷いなく壇上から降りてくるサイアンの足取りに、今度こそすべてが終わるのだと。
絶望の淵に落ちるのだと首をうな垂れた途端、エオシンの頭に影が差した。不意に頭をもたげるとスカーレットが深紅の瞳の色をさらに深めて笑っていた。
とうとう姉姫の願いが達成されるのだ。妹を苛め抜くことを生きがいにしている彼女の、最大の嫌がらせがいま成功する。エオシンは深い溜息を吐きそうになったが、近づく姉姫の顔に息を飲み込んだ。
「知っていて?わたくしの可愛いエオシン」
いつも耳にする姉姫の呼びかけにはどこか常と違う情愛が含まれていた。
「アズーリに嫁ぐのは、マゼンタの王女であれば誰でもよいの」
言葉は確かにエオシンの耳朶を打つのに、その意味を理解することが出来なかった。そしてサイアンのようにいく度もまばたきを繰り返し、エオシンは姉姫を見上げた。
スカーレットは妹の表情に満足すると、勢い良く彼女の体を押し出した。
上座に向かって。
驚くいとまも、状況を把握する余裕も与えられず、エオシンは突き出された先の、自分の立ち位置を知ると頭が真っ白になった。首をめぐらせて、いま自分がしでかしている事が――彼女が望んだことではなくとも――どれほどわきまえのない人間のすることかと青褪めた。
彼女は玉座を臨む、王太子の到来を待ち望んでいる大勢の貴婦人の輪から、数歩前にまろびでたのだ。我こそはと王子を待ち受ける令嬢たちからすれば、エオシンは何と厚かましい女に写っただろうか。呼ばれもしないのにしゃしゃり出て、眉をひそめられるのは必至である。
何をするのだ、とエオシンは後方の姉姫を振り返ったが、姉は扇をあおいで満足気に微笑んだ。
「エオシン」
彼女がいかんともしがたく、途方にくれた時、凛と響く涼やかな声音に名前を呼ばれた。
途端にエオシンの心臓が壊れるほどの脈動を取り戻す。見上げればまぢかにサイアンの秀麗な顔があったのだ。
「サイアン……」
彼の名を呼ぶ唇は熱を帯びて、体の隅々にまで派生していった。失われていた情熱が、再び彼女を支配する。
サイアンは微笑に瞳を細めると、淀みのない動きで彼女の前に跪いた。
「姫君、最初の一曲を私と踊っていただけますか?」
差し出された手を、信じられない眼差しでエオシンは凝視した。何度も彼の顔と交互に視線を彷徨わせ、彼の視線が揺らぐことなく自分に向いているのを知ると、おずおずと片手を差し出した。
「わたしでよければ……よろこんで」
まだ夢を見ているのか、自分の妄想なのか。エオシンが不安を胸にくすぶらせながらも夢心地で彼の掌に自分の手を重ねた。
するとエオシンの想像通り、サイアンはうやうやしく手を取るとその甲に口付けた。彼女の想像と違うことは、彼が大切に唇を寄せるのは、姉姫でなく自分の手なのだ。
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