カーテンを引くどころではなかった室内は、燦々と入り込む朝陽によってすでに明るい。窓からの太陽の光が、枕に顔を埋めたエオシンの後頭部を照らしていた。
昨晩、がむしゃらに走ってこの部屋へ帰ってきた。姉の手から逃れ、故国を捨てるようにこのアズーリに来たのが約二年前だ。それ以来、エオシンは学府に併設されたこの宿舎に住んでいる。
室内には雑然と教材やノートが置かれ、種々の書物がそこかしこで小山を作っていた。無造作に置かれた勉強椅子の背には、濃灰の制服が掛けられ、とても整理整頓の行き届いた部屋とは言い難い。
しかしエオシンはこの部屋で二年もの月日を過ごした。その中には夜を徹して机に向かう日も、頑丈な衣装ダンスに拳を打ちつける日もあった。そして枕を濡らす出来事もあったが、今日ほど酷い気分はなかった。
エオシンは泣いたまま眠ったために、割れそうに痛む頭を抱えて呻いた。枕から顔を上げ、白い木綿のカバーを見下ろすと、まるで断末魔のような唸り声をあげた。
「化粧を落とすの忘れていた……」
顔に塗ったものを落とすより、布に移ったものを落とすほうが何倍も骨が折れるのだ。しかも化粧汚れはエオシンの涙によって更に強く繊維に染み付いているだろう。
溜息をつき、枕からカバーを剥ごうと手を掛けたが、視界が不意に滲んで上手く手先が見えなくなった。途端に大粒の涙が頬をつたい、エオシンの喉は再び嗚咽に支配されたのだった。
「うーー」
言葉にならない声が部屋に響き、涙と共に苦しそうな息遣いが再び彼女の体を乗っ取る。
再び枕に突っ伏した彼女は、自分の感情とは別のところで、この枕カバーは廃棄決定だと思った。

悲しみが胸をさいなみ、こらえきれないほどの苦しみを感じる。悲しくて、悲しくて、狂ってしまいそうだった。
この痛む心臓を抉り出したならば、何も感じず、苦しみから解放されるのだろうかと、胸部に爪を立ててみたけれど、存外に硬い人間の皮膚と肋骨にそれを阻まれる。なによりも、感じた痛覚に生存本能が働き、指に力が入らなくなる。
自分が生きているのだと実感し、エオシンは皮肉に乾いた笑いを漏らした。
顔を上げて自分の体を眺める。彼が似合うと言ってくれたから装った白のドレスは、ベッドを隙間なく覆うほどにかさばって、無残なほどにぐしゃぐしゃ皺だらけである。それもそのはず昨夜、彼女はこのままの衣装でベッドへ飛び込んだきり、豪快に泣き出してはうたた寝、起きてはさめざめ泣いていたのだから。
悲しみの合間に思い出されるのはどうしようもなく愛しい人の姿だった。その笑顔を脳裏に浮かべた途端に再び涙が溢れ出し、胸がキリキリと痛み出す。
泣き疲れて微睡む時ですら悲哀は彼女をさいなんだ。幸せな夢は正にうたかた。すぐさま悪夢に取って代わられ、うなされて目を覚ます。
現実に戻れば再び悲しみに暮れ、涙が止め処なくあふれ出す。
終わりのない悲しみにエオシンは心を壊しそうだった。

このままアズーリに留まれば、愛する人が実姉と結婚してしまうのを間近で見ていなければならない。それは拷問にも等しく、耐えられるだけの根性をエオシンは持ち合わせていない。
彼の人が自分に向けた優しい瞳を実姉にも向けるのかと思うと吐き気さえ催す。想像するだけで酷い嫉妬に胸が悪くなる。
もともとアズーリで仕官するつもりであったが即座に予定変更せざるを得ない。アズーリがだめならどこへ行くべきか。今さら故国のマゼンタに戻りたくないし、芸術の国シトロンには何のコネクションもない。農林の国ユーグレナならおっとりとした気風に心が癒されそうだ。ここにも縁故はないが、牧歌的な人々は旅人にも優しいと聞く。
鼻水をすすりながらエオシンは枕から顔をずらし、窓際に置かれた白い花を眺めた。
本当にサイアンとは決別なのだと感じて、また胸が貫かれた。意図せず目尻からじんわりと涙が溢れ出し、鼻がつんと痛む。
「ううう……」
唇を震わせて、何度目になるか分からない嗚咽を堪えたエオシンが枕に顔を戻そうとした――その瞬間。
「鬱陶しいこと」
「ひっ!」
幼い身より染み付いた条件反射が突如として働いた。誰の声かと頭で認識するよりも早く、体が防衛反応を示していたのだ。
自分の身をかばうように両腕をかざし、その隙間から恐る恐るのぞき見た実姉は今日も変わりなく美しかった。豪奢なドレスを身にまとい、後ろには侍女が空気のように控えている。狭い部屋はそれだけで酷い圧迫感に支配されたのだった。
「ね、ね、ね、ねえさん」
嗚咽に酷使したのどは恐怖に震え、まともに喋られたものではない。しかし尽きぬと思われた涙はぴたりと止んで、胸の痛みは一瞬でも忘れ去られた。
「ここは相変わらず狭いわね」
エオシンの汚い部屋をぐるりと見回しスカーレットは呟いたが、部屋の主はそんな台詞を聞き取れる余裕などない。姉姫が突然現れたことに驚きを隠せず、動揺と共に酸欠状態の金魚のごとく、口をパクパク震わせるだけである。
エオシンを余所にスカーレットは雑然と積まれる本の山を蹴散らせ、濃灰のローブが掛けられた木製の椅子に腰掛けた。その際、空気のように存在感なく傍に控えていた侍女らは、姉姫のドレスの裾を美しく整えることを忘れない。
「まーあ、よくもそんなにじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめじめしていられること。何があったか知らないけれどねえお前、自分が何をしているか分かっていて?」
ひらひらと口元を舞っていた扇が外されると、矢継ぎ早に飛び出した言葉にエオシンは圧倒された。スカーレットは眉根を寄せて妹を見下し、不快に口元を歪める。
「わたくしとの約束をひとつも果たしていないではないの。お前はわたくしの侍女として舞踏会に付き従ってくれるのでしょう?昨日も一昨日も、お前はちっともわたくしと一緒にいてくれないし、昨晩なんて勝手に帰ってしまう始末。私の許可もなしに!」
スカーレットは語尾に力を込めると同時に掴んだ扇を机の角に撃ちつけた。派手な音が鳴り、エオシンは驚いて身をすくめたのだった。
「申し訳ありません」
しかしエオシンの口から出てくるのは事務的な謝罪の言葉。姉と目を合わせようとはせず、抑揚のない声で淡々と答えている。
「今日こそはわたくしと舞踏会に出るのよ」
「嫌です」
「口答えは許さない。わたくしと舞踏会に行くの」
「何といわれようと行きたくありません」
スカーレットの再三の要望にも、エオシンは即座に首を振って拒否を示す。
頑固に口をつぐみ、エオシンは一点を凝視したまま微動だにしない。まるで理不尽な叱責に口を閉ざす子供のようだった。
姉姫の柳眉がぴくりと釣りあがり、嘲笑のような短い息を吐き出す。どうやら逆さづりにして火あぶりにしても是と頷く気はないようだと、姉姫は妹の頑固ぶりを評価した。
一旦言葉を切ると、部屋には沈黙が下りる。エオシンは姉姫に口を利く気はないようである。
スカーレットは手の中で扇を弄びながら再び沈黙を破った。
「最後にアズーリ王太子に会えなくても良いというの?」
静かな狭い部屋に響くスカーレットの声。弾かれたようにエオシンは実姉を振り仰ぐ。驚きに見開いた瞳には困惑に揺れる動揺。しかし一瞬で切り替えられ、鋭く突き刺す鋭利な猜疑が実姉を射抜いた。
「わたくし、お前のことなら何でも知っているの」
悪意に満ちた姉姫の微笑みは見慣れたもので、エオシンは姉を見つめたまま下唇を噛み締めた。
「不細工な顔ねえ、わたくしと血が繋がっているだなんて思えなくてよ」
しかしスカーレットは実妹が浮かべる憎悪などものともせず、自分を睨みつける顔を貶し、意地悪く微笑むのだ。
「姉さん」
話を逸らさないで、言葉にしない部分は目で訴える。しかし姉はエオシンを服従させる人物であり、その程度の威圧など蚊に刺される程度のものなのだ。
「まあそんな不細工な顔をご覧になれば、あちらの殿下も逃げてしまうでしょうね」
ゆかいゆかい、とスカーレットは扇を広げておのれに風を送る。
「姉さん!」
「わたくしと舞踏会に行くのよ」
妹の苛立ちに荒げた声を逆に押さえつけるように、姉の低く響く声が重なった。
一切の微笑を消し去り、姉姫は常になくエオシンを威圧してくる。
幼い頃に感じた恐怖がじわじわと背筋を這い登り、エオシンは我知らず泣く寸前の、心許ない表情をしていた。
「わたくし、お前の泣く顔が大好きよ。とっても可愛い」
いまだエオシンを威圧したままで、スカーレットはうっとりと溜息すら吐きながら深く笑む。
「お前の大好きな王太子殿下が義兄になるのですもの、嬉しいでしょう?わたくしの可愛いエオシン」
高らかにスカーレットの笑い声が響き、エオシンはその瞬間に忘れていた絶望感を思い出して滂沱と涙を流した。
姉は全てを知っていて、アズーリに嫁ぐ気なのだ。
「今夜が楽しみ。ねえエオシン」
美しく歪められるスカーレットの唇は、故郷にいた頃のエオシンの恐怖の対象だった。そしてそれは今も変わらない。
姉姫は今も変わらずエオシンを虐げるために存在するのだ。
妹の恐怖を、悲哀を、絶望を。それらを引き出すためならば己の婚姻など取るに足りないことなのだ。
「今度こそ、逃げることは許さない」
スカーレットは粗末な椅子から立ち上がると、いまだ寝台に身を横たえる妹の腕をむんずと掴んだ。
「姉さん!?」
「さあ今夜の仕度をするのよ」
保身のためから咄嗟に床へ足を付けたエオシンだったが、嬉々とした様子のスカーレットは彼女をそのまま引きずっていく。エオシンはなんとか歩調を合わせようとしたが、気力のない彼女には叶えられず、結局ふらつく足取りで最後の審判の待つであろう王宮へと拉致の憂き目にあったのだった。




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