天はすでに闇に染まり、庭園をくまなく照らす照明も、すでに漏れなく灯っていた。
うっすらと開いた瞼から、藍の夜闇にあってもその輝きを失わない晴天の双眸が姿を現した。しかし美しい碧眼はどこか遠くを見ていて、いまだ夢うつつの狭間を揺蕩う。
刻限を越え暗がりの中仄かに光り浮かぶ東屋のわき、サイアンは東屋の外壁を背に眠っていたようだった。意識が朦朧としていて上手く考えがまとまらず、サイアンはしばらく芝の上で月と見紛う外灯を眺めていた。
「どうして……」
どうして自分はこんなところで転寝などしていたのだろうか。サイアンは緩慢な動作でこぶしを額に押し付けると、頭を振って思考にかかる霧を払おうとした。
その時、彼の肩から白い何かがひるがえり地面に落ちる。
サイアンはそれを目で追って芝生から取り上げると高く掲げ持ち、東屋の光を灯りにして正体をつかんだ。
彼の肩に掛けられていたのは絹糸で編まれたレースのショールだった。上品な艶を放つ白色で複雑な意匠が施されたそれは、紛れもなく先ほど会った女性が身につけていたものだった。
「エオシン」
脳裏に思い浮かんだままに呟いてサイアンは我に返るように目を見開いた。飛び上がって立ち上がるとレンガの道に乗り上げ、右往左往する姿はいつもの冷静さを欠いており、彼が常の状態ではないと誰もが思うだろう。
「エオシン!」
右の道を走り、三叉路で彼女の名を叫んでは夜目を凝らして辺りをうかがう。梨のつぶてに碧眼を揺らめかせ、踵を返して反対側へ走っていった。
そこもやはり彼女の姿はおろか、些細な手がかりすらもなく、サイアンはいよいよ途方にくれたのだった。
荒い息が出るのは、直前の疾走ばかりのせいではないだろう。この胸を覆う、漠然とした焦燥が心拍数を速めているのだ。
無理矢理に落ち着きを取り戻さんが為、サイアンは眉間に皺を寄せ固く目を閉じると深い呼吸を繰り返した。
何も見えない視界の中、瞼の裏に思い描くのは、つい今しがたの逢瀬。愛しい人と心を通い合わせたはずだった。それはこれまでの人生で、最高の幸福であったといえる。
けれど全て自分勝手に舞い上がっていただけだった。
彼女にとって自分の何がいけなかったのだろう。好きだと、愛していると言ってくれたのに。
互いの心は同じだと言うのに、彼女はなぜサイアンの傍を離れたがったのだろう。
自問すれども頭に血が上ったサイアンには真っ当な答えは浮かばなかった。
サイアンが名を告げたとき、彼女の様子が少し変わっていたことが気になるといえば気になっていた。しかしサイアンは己の春に酔いしれて、些細なことにてんで気が回らなかったのだ。
そのことから察するにエオシンはきっとサイアンの素性に気付いたのだろう。
もしかすると身分違いの恋だったのかもしれない。そしてエオシンは打ちひしがれ、別れを告げたのではないだろうか。
なんてことだろう、もっとしっかり彼女を捕まえておくべきだった。どうしてあのとき彼女を抱き締めなかったのだろう。もっと早く決心をつけて、傍にいて欲しいと告げるべきだったのだ。
彼女さえいれば、他には何もいらないのに。
サイアンは月の浮かぶ夜空を見上げ、上弦が滲み歪んでいるのに気付いた。瞬きを繰り返すと頬に冷たい空気を感じ、指で拭うと濡れていることに驚いた。
憶えている限りで涙を流したのなんか、母親が王宮を出て行ったとき以来だ。幼少時はロマンチシズムに囲まれて育ったものだが、継嗣として立太子してからは男子は泣かぬものだと教育官に躾けられていた。心身ともに成長すると涙腺が硬くなったのか、泣くほどの出来事には遭遇しなかった。
それが今まさに涙を流している。それも一人の女性を想って。
自分はつくづくロマンチストだと自嘲するが、涙は止まってくれず、最後に見た憔悴の彼女を思い出し更に胸が苦しくなるばかりだった。
視線を上弦の月から外し、不意に目に留まった外灯の群れる蛾を眺めた。
光を求め過ぎ、火屋のわずかな隙間さえかいくぐって近づいた炎に身を焼かれる彼らは何と儚い命だろうか。求め過ぎれば己の身を滅ぼし、命さえ奪う灼熱の炎はしかし、恋に酷似している。
求める想いが強いほど、拒絶は刃となって心身を傷つける。
サイアンはエオシンの別離を拒絶と取り、酷く心を傷つけていた。
虫に確固とした意思などありはしないと知ってはいるものの、明かりを求めてやまない蛾の群れに人の営みを重ねるのだった。
「――それでも人は恋をする」
炎に身を捧げ、灼熱に身を焼かれても、蛾が光を恋しがるようにサイアンは彼女を求めてやまない。
軋む心臓をえぐり出さん勢いでサイアンは胸元を鷲掴んだ。
「エオシン、エオシン、エオシン」
呼べば呼ぶほど胸は苦しくなるのに、呼ばずにはいられない。叫んで彼女に届くのならば、咽喉が潰れてもかまわない。
「愛してる」
涙は雫となり、煉瓦の道に一滴のしみを作った。

涙は枯れることなく湧き出るかのように思えた。
しかし明けない夜はないのと同じく、何事にも終わりはくるのだ。サイアンの涙も、いつしか心の昂りが凪ぐのと共に頬に伝ったものも乾いていた。
外灯の周りには、まだ蛾が群れている。これから一晩中、炎が燃え続ける限り彼らは飛び続けるのだろう。サイアンも然り。
彼は頬に張り付いた涙の後を手の平で乱暴にこすり、目元を上着の袖で強く拭った。
乾いた瞳には静かに燃える炎が宿る。赤よりもなお熱い、青の炎が。
サイアンは踵を返すと己の部屋のある館へと続く道を辿り始めた。庭園を縦横無尽に走る煉瓦の道を再び疾走する。
彼は決してエオシンを諦めない。彼女は確かにサイアンを「愛している」と言ったのだ。サイアンも彼女を愛している。出会ったのが昨日で、愛を育む逢瀬がたった三度だったとしても、この先の一生を共にしたいと思える。
サイアンは己の想いをすべて彼女に伝えていない。彼女の心内は分からないが、彼女が身分の差や何がしかの障害によってサイアンを諦めざるを得ないのだというのなら、その全てのものから守る決意と、彼女自身を求めている事を訴えなければならない。
エオシンが王太子妃という身分を厭うのならば、国を捨てても構わない。血統は途絶えても国が滅びるわけではないが、エオシンを失えばサイアンの心は生きていられないだろう。
サイアンにとってもエオシンは唯一の人なのだ。もう彼女以外を求められない。
身を焦がして光を求める蛾のように、身命を賭して彼女が手に入るのならば、たやすく捧げてみせよう。どうせ彼女を失えば己を失ったも同然だ。
エオシンが存在する限り、彼は彼女を求め続ける。
虫の本能と同じように。


館の扉を勢い良く開けると大臣たちが控えているであろう部屋へと走っていく。絨毯の敷き詰められた廊下でありながら、サイアンの靴音は高く響き、すれ違う女官や衛兵が驚いた顔で彼を見送った。
すでに夜会は二晩目を数え、別棟の大広間では紳士淑女が表向きの主役である国王の快気祝いを述べているだろう。御前で催される舞踏会は絢爛を極め、国内外の王侯貴族をはじめ高名な学術者や芸術家など賓客は多岐に渡る。しかしその客すべては名前、身分など厳しく管理され、進物なども詳しく記録され保管されるのだ。
それはアズーリと言う国の、良くも悪くも富める大国が所以だろう。国王を筆頭とした貴人たちと、富国の種である知識の粋を守るために、厳しくせざるを得ない。
記録された帳簿を管理するのは十人の大臣のうちの一人である。
「人を探して欲しい!」
サイアンは目当ての大臣を見つけるなり、噛み付かんばかりの勢いで叫んだ。ここまでの全力疾走で息は切れていたが、呼吸を整える暇も惜しい。大臣のほうは、なにやら必死の形相で食らいつく王太子にただただ目を見開くばかりである。
今までどこにいたのか、王太子の上着には所々に枯れ草が付いていたが、とても聞ける様子ではなく他の大臣も口をつぐんだ。
「今回の招待者からエオシンという女性を探せ。年は十六、七で赤毛に真紅の瞳だ」
早く、と急きたてるサイアンの剣幕に圧されてその場にいた大臣たちはあたふたと駆け出す。すぐさま分厚い帳簿と共に戻ってきた大臣が、忙しくページを捲くり芳しくない答えをもたらすのにさほど時間はかからなかった。
「で、殿下。そのエオシン殿という女性はどういった方で?」
落胆の色を隠せないサイアンに、一人の大臣がとうとう疑問を投げかけた。彼の機嫌を伺うように、恐る恐ると言った態ではあるが、今まで浮いた話のなかったサイアンの口から発せられた女性の名前に皆興味津々であることは隠せない。
いらいらと落ち着きなく、今もすでに部屋を飛び出さんばかりの王太子は、求める情報ではないことに不満げではあったが、唇を引き結ぶと視線を逸らせてほんのり頬を染めた。
「大切な……ひとだ」
その瞬間、室内にいる大臣たちは雷に打たれる衝撃を受けた。思えば屈折二十余年、王家の繁栄に心を砕かんと奔走してきた彼らだが、最大の難題であった王太子のこれほどまで微笑ましい表情を見たことがあっただろうか。幼少のみぎりのいとけない行動に頬をほころばせるのとはまた違った嬉しさである。いっそ感動と言っても差し支えない。
「ででででで殿下!!嬉しゅうございます、嬉しゅうございます!」
「とうとう……とうとうその気になっていただけたのですね!」
「探しましょう!殿下がお望みならば、我ら命を張ってお探し申し上げましょうぞ!」
大臣たちの協力的な態度は予想外で、その盛り上がりようには気後れがするほどだった。
「して、その姫君はどこのご令嬢なのですかな?」
確認するように大臣の一人が口ひげを撫でつつ質問した。サイアンは痛いところを突かれて一瞬眉をひそめたが、誰もその表情には気付かなかった。しかし返答も曖昧に口ごもれば、すぐに気取られるものだ。
「知らない」
「どこの家名かもお分かりにならなければ探しようもありませぬぞ」
それでも芳しくないサイアンの口ぶりに、今まで天高く舞い上がっていた各々の大臣たちも、訝しげに視線を送った。雲行きの怪しい王太子の縁談は、どこまで行っても晴れ間が見えない。
探してくれと、名前だけを告げた時点で家名など知ろうはずもないことはとうに分かっているだろう。しかし彼は暗に示しているのだ。貴族令嬢でなければ王太子の伴侶として探すことはできないと。
「彼女は何も言わなかったんだ。……私も、何も聞けなかった。一緒にいるだけで精一杯だったんだ」
サイアンは再び顔を赤らめると、熱を帯びた頬を無意識に手の平で覆った。脳裏にはめくるめく恋物語の一場面が思い出されているのだろうと、大臣たちは微笑ましく目を細めた。
しかしそれとこれとは話が別である。サイアンが恋をしたのはめでたいが、王太子の伴侶となれば確固たる後ろ盾を持ち、アズーリの王后に相応しい頭脳と気品、そして民衆と王から愛される美しさと後継を産む健康な体を備えていなければならないのだ。後者二つはサイアンの心を射止めた女性が持っていたとしても、前者二つを持っている可能性は薄い。しかし前者二つもなくてはならない条件であり、なければその女性自身が後々苦悩を負うだろう。
「殿下、良くお考え下さい。騙されているということもあるのですぞ。貴方様に多くを語らなかったのも策略かも知れませぬ――」
「エオシンはそんなひとじゃない!」
大臣としては可能性を言ったまでだ。サイアンを冷静に考えさせるために、考えうる可能性を挙げたのだが彼は嫌悪感もあらわに声を荒げた。
眉間に皺を寄せた顔が激怒に染まっている。
地雷を踏んだと、大臣たちが一斉に青褪めた時――
「お前か、わずらいの種は」
後方で凛と響く声がした。誰もがその声音に我に返り振り返った。
立っていたのは清楚可憐な桃色のドレスを身にまとった貴婦人であった。口元を開いた扇で隠し、笑みに細めた瞳の色は燃え盛るような深紅。高く結い上げた髪は瞳と同じ深紅で、白い肌がなお一層白く見える。
誰もが彼女の声を聞いたはずなのに、彼女の存在自体に思考を奪われ先ほどの言葉は脳裏に残ってはいなかった。それほどに強烈な存在感を放つ女性に、サイアンは顔をしかめた。
「誰?」
不快な誰何の声音を聞き取り、女性はむしろ嬉々として目をさらに細めたのだった。そして流れるような手つきを以って扇が畳まれた。現れた朱の唇は優美な弧を描き、緩やかに開かれた口内からは白い歯が覗いた。
「ようやくお目にかかります。マゼンタ王が第一王女スカーレットと申します」
鈴を転がす声が部屋に響いた。
しかしサイアンは彼女の名よりも目を見開き驚きを隠せない。
「エオシン……」
わななくサイアンの唇が紡いだ名は、愛してやまない運命の人。
王女の唇は再び弧を描いた。




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