陽は傾いて、しかし黄昏色をたなびかせるにはまだ少しばかり早い時刻、くすみ始めた空の色が頭上を流れていく。
サイアンは白シャツのカフスを手持ち無沙汰の末に弄りながら、東屋の入り口に背を預けていた。長く伸びた影法師が時の頃を教えてくれるが、待ち人はまだ来ない。
昼過ぎにエオシンと別れてから、サイアンは夢心地で部屋に帰った。顔中の筋肉が緩むのが抑えられず、にやけるサイアンの顔に侍従がえらく気味悪がっていたのは我ながら恥ずかしくも申し訳ないと思っている。
しかし、昼の出来事を思い出すだけでどうしようもなく心が暴走するのだから仕方がない。
二度目に抱き締めた彼女の体はやはり柔らかく、鼻を寄せた赤毛からは日向のにおいがした。美しい彼女の紅唇から紡がれる己の名が、今だかつて耳にしたことのないような妙なる調べに聞こえたことは不思議な出来事だった。だがその事象にはなんとなくだが心当たりがある。
サイアンは拳を固く握り、胸を押さえる。その下の心臓が激しく鳴り出した。
――恋。
この胸の高鳴りが示すものはそれなのだろうか。いや、それ以外に何があるだろう。
彼女のことを考えるだけで震える心臓も、特別な音色に聞こえた自分の名前も、全て恋の魔法によるものだろうか。
赤茶色の髪の清楚な姫君のことを思い出し、サイアンは再び緩んだ頬を押さえた。
例えるのなら清廉な空気をまとう可憐な一輪の赤い花。決して華美に目立つことはなく、あまねく衆人の目を奪うことはないのかもしれない。
しかし近づけばその美しさが類稀なものであることが気付けるだろう。そしてサイアンは出会ってしまい心奪われた。きっと出会った瞬間に、あの赤い瞳に魅了されたのだ。
今まで引き合わされたどの姫君にもサイアンの心は奪えなかった。それがあの赤毛の少女にはいともたやすく捧げてしまったのだ。これを運命といわずして、何を運命だというのだろう。
恋に落ちてしまった自分の心に、サイアンは熱い溜息を漏らす。
幼い頃から夢見ていた人にとうとう出会ってしまったのだ。一目で恋に落ちる運命の女性に。
彼女のためならば、身を滅ぼしてもいい。そんな想いさえ過ぎるほど、彼女の事が愛しくて恋しくて欲しくてたまらない。今まで感じることのなかった激情にサイアンは戸惑いさえ覚えてしまう。
しかし、あの美しい人が傍にいてくれるのならば他に何もいらないと思うのは、偽りのない真の心であり、確固たる意思である。
ずっと傍にいて欲しい。傍らに立つ彼女の姿を想像すると、カッと頬が火照る。
そう、己の心はもう迷いようもなく彼女を望んでいる。彼女との未来を――
この想いを打ち明けて、果たして彼女は頷いてくれるだろうか。
そこでサイアンははたと思い直った。途端に顔から血の気が引いていく。
自分の気持ちばかりが先立って、相手のことを全く考えていなかったのだ。
彼女は自分をどう思っているのか。推し量ろうにもサイアンには盲目の恋ゆえに全く判断がつかなかった。
抱き締めて嫌がる素振りを見せなかったから、少なくとも好意は抱いてくれていると、前向きな見解を導き出したが、しかし、とすぐ裏で別な思考が邪魔をする。
嫌悪を感じていたのに相手は王太子。拒否の言葉を押し込めて、嫌々抱き締められていたのでは。現に最初は激しい拒絶にあったではないか。後ろ向き思考がすぐさま主権を握るサイアンの心内。
相手の心が確信できず、自信のなさが足を引っ張り、恋に臆病になるのは人の常である。サイアンも例に漏れず、ずぶずぶと暗澹たるネガティブにはまり行く一方だった。
だから背後からやってくる人影に気付かなかった。大きな衣擦れの音をさせていると言うのに、良くも悪くも集中力のある彼には一度没頭するとなかなかまわりに気付けない癖があったのだ。
「どうかなさいましたか?サイアン様」
鈴を転がす声に我に返れたのは、正に恋の力だろう。
振り返ると階段の下に、愛しい人の姿があった。
それまで鬱々と後ろ向き思考に囚われていたはずだったのに、まるで霧が晴れるように彼女のことしか考えられなくなってしまった。
「エオシン!」
一気に頬を紅潮させて、サイアンはわき目もふらず彼女のもとへ走っていった。
夕刻のエオシンはサイアンが似合うと言った白を着てくれていた。白をベースにした淡い色の、レースを何枚も重ねて裾が広がる、幼い頃に愛読した、童話の中の姫のようだった。
長い髪は複雑に編み込まれ、白と赤の豪奢な花を挿し、きっちりと纏め上げられていた。
「どこか具合がお悪いのでは……?」
気遣わしげに紅玉の瞳が見上げてきたが、サイアンは上目遣いの彼女に胸が高鳴り気分はむしろ高揚していた。彼女と会えることに喜びこそすれ、たとえ具合が悪かろうとも途端に快調となるに違いない。たかが体調不良で逢瀬を無駄にしてはなるまい。
「まさか、考え事をしていただけですよ」
こうしてサイアンの体調を慮ってくれる人が、よもや彼を嫌悪するはずはない。そもそも彼を厭うのならばもう二度と会わなければ良い話だ。
そう考えるとサイアンの心は一気に浮上した。
「そう、よかった」
安堵の笑みを漏らす彼女のばら色の頬に、思わず口付けをしてしまいたくなる衝動を何とか堪え、代わりにサイアンは彼女の左手をとってその甲に口付けた。
彼女の頬に赤みが増し、照れたように瞳を伏せる姿がたまらなく愛しかった。できればこのまま舞踏会の行われる広間へ連れて行き、彼女との婚姻を宣言してしまいたい。
そうすれば、大臣たちが決定した妃候補も反古にできるかもしれないから。あれは自分が望んだことではないのだ。本当に望むのは、目の前の彼女。
「あなたが好きです」
唐突なサイアンの言葉に彼女の伏せた赤い瞳が震えた。おもむろに首をもたげて、その心を映す瞳があらわになる前に抱き締め、美しくまとめられた髪に顔を埋めた。
彼女の好意を疑いはしないが、自分の感情と彼女のそれが同じものか、いまだ自信はないのだ。半ば衝動のように胸の内を吐露してしまったが、彼女の答えを聞くのは死刑宣告に近しい。
時間はまるで永遠に過ぎ去らぬようで、しかし確実に経っている。
未来永劫ここより時が動かぬのではと思われた沈黙から、エオシンの細い指先がサイアンの背に触れた。
「サイアン」
天上に住まう妙音鳥とてこのように彼の胸を打ち震わせる音色でもって名を呼ぶことはできないだろう。囁かれる彼女の吐息は、甘やかにサイアンの耳に届いた。
「私も、あなたをお慕いしています」
消え入りそうな声が震えているのは、彼女の吐息が震えているからなのか。
喜びに気がふれそうになりながらも、サイアンは彼女のひくつく咽喉が気になった。
自分と同じように愛しいと思ってくれていることに歓喜して、固く抱き締めあいたかったけれど、体を離して正面から捉えた彼女の赤い瞳から、止め処なくあふれる涙の雫がサイアンの心を揺さぶった。
「どうして泣くのですか」
紅玉の瞳からこぼれる涙にひどく狼狽した。普段、父王に代わり政務を執っていてもこれほど動揺することなどあっただろうか。
まず自分に非があったのかと省みて、思い当たる節がなく再び彼女の涙の理由を探す。
目にごみが入ったのか、抱き締めた力が強かったのだろうか。それとも――
やはり慕っていると言ったのは偽りで、泣くほどサイアンの事が嫌いなのか。
そうだとしたら泣きたいのはむしろこちらのほうだ。
再び被害妄想甚だしいまでの否定的思考に陥った彼からは表情が抜け落ち、悲愴の思いは青の瞳を凍てつかせた。傍から見れば冷えた眼差しに写っただろう。
エオシンは赤の瞳を揺らめかせ、下唇を噛み締めたあと、サイアンの首に腕を回した。
これ以上の涙を隠すように、サイアンの瞳から逃れるように。
「好きです。あなたが好き」
エオシンの吐息が掛かる耳朶はくすぐったくて、けれど燃えるように熱く脈打っている。まるでそこに新たな心臓ができあがったかのごとく、鼓動はすぐ傍で聞こえていた。
脈動に彼女の言葉が更に重なる。
「あなたのことを考えると夜も眠れませんでした。抱き締められた腕が忘れられませんでした」
思いもよらない女性からの情熱的な告白は、再び陥った暗闇からサイアンを呼び起こすには充分だった。
顔を上げようと身じろいだその動きも彼女は封じて、ますますサイアンの首に回す力を強めた。頬に当たる柔らかさが熱情を掻き立てて、鼓膜を打つ声に体の芯がじんと響く。
「あなたを想うと胸が壊れそうに痛むのです。今だってそう。それなのに、傍にいるだけでたまらなく嬉しい」
彼女から紡がれる言葉は魔法の呪文のようにサイアンの体だけでなく思考さえも麻痺させるようだった。エオシンが涙と嗚咽を堪えて吐き出す言葉にも、純然たる恋情しか見出せない程に。
「エオシン……」
躊躇いがちにではあるが陶酔して彼女の背に腕をまわそうとした。しかし望みは叶わぬまま、エオシンの体が離れたことによって彼はその手を下ろしたのだった。
抱き締める機会を逃したことに少し残念がりながら、サイアンは戻ってきたエオシンの白い顔を見つめ、その色の悪さに眉をひそめる。
「エオシン?」
彼女の憔悴ぶりは普通ではなく、サイアンの心臓は引き絞られるような衝撃を受けたのだった。
訝しく眉を寄せるサイアンを見上げ、エオシンは紅の塗られた唇を弧に歪める。笑おうと作った表情はいびつに形作られ、むしろ悲哀を滲ませていた。
「たとえ一時でもあなたの心に留まれたのは、私にとって幸福でした」
彼女の言葉にサイアンはますます不可解な思いを募らせた。彼女の言葉の意味が全くもって理解できないのだ。まるで、別れのあいさつのようで焦燥に駆られる。
「これより先、あなた以外に恋はしません。あなたが忘れてしまっても、あなたは私の唯一です」
「何を言って……」
いよいよ不穏な言葉の数々にサイアンが焦り始め彼女の言葉を遮ろうとした瞬間、エオシンの白い腕がサイアンの頭を引き寄せた。
唇に暖かく柔らかいものが触れたかと思うと、一瞬にしてサイアンの思考を奪っていった。
小さな音とともに心地良い熱も唇から離れていく。引き止めなければならないはずなのに、呪縛にかけられたかのようにサイアンの体は動かなかった。
「愛しています、サイアン。たった昨日に会ったばかりだけれど、本当よ」
紅がいささか薄らいだ唇が囁く。
あの紅が今は自分に移ったのだろうかと、サイアンは呆然とする中で考えた。
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