「サイ、アン」
震える唇が恐々と紡ぎだす音が、もはや自分の声でないように思えた。確かに聞き覚えのある名のはずだ。それはこの国で最も貴き血筋の人の名ではないか。
学府で友人と交わす会話の中、幾度となく彼の人が修めた論文を称賛したし、日用品を買いに出た市場では、露天の店主や買い物客が王政を担う王太子のことを話題にせぬ日はない。
故郷の宮殿にいた頃なら、他国の王子の名など憶えていなかっただろう。けれど自分の住む国の王子、しかも次代の王となる人の名を知らぬわけがなかろう。
それに、この国の王太子といえば、エオシンの姉の婚約者ではないか。
あれほど熱を上げていた体が、液体窒素でも浴びせられたかのように急激に冷えていった。
昨夜は姉姫に会わなかったから、今自分にこんなに優しくしてくれる。姉姫に会ってしまったら、きっと彼は婚約者に夢中になってしまうだろう。それこそ持てる時間を全て共にいたいと思うほどに。姉姫から逃げたことを、エオシンと出会ってこうして歩いた時間ですら、彼は後悔するのかもしれない。
なんて残酷なことだろう。
「あなたの名も、教えてはいただけませんか」
何も知らない青い瞳が、期待に満ちた眼差しで催促する。
なんて憎らしいことだろう。
しかし奈落の底に落ちた状態でも、まだ彼に胸をときめかせてしまう自分が異常だと思った。
決して手に入らないと分かっているのに、すぐには諦められない浅ましい執着心が嫌だった。
そして嫌いになることもできず、何があってもこの好意を覆すことなどできない自分の感情に行き着くのだ。
「エオシン、です」
一瞬だけ偽名を名乗ることを考えた。彼が姉の手を取るのなら、今後アズーリに出仕することも義妹としても彼の前に立つことは出来ない。けれど今、彼に名前を呼ばれたいと思うことを、抑えることなどできはしない。
「エオシン、綺麗な名前ですね。あなたの瞳の色だ」
願ったとおり、彼の唇に紡がれた己の名の、何と甘美な響きだろう。名を呼ばれたときの胸の高鳴りはどれほどの歓喜を保有していることだろう。
絶望の淵に落ちた後で気付くなんて、自分はなんて間抜けなのだろうか。事実を知る前に気付いていたとしても運命が変わるとは思えなかったが、少なくとも落ちた底の更に底へ落ちることはなかった。エオシンは心の中で自らを嘲るのだった。
いまさら恋情を知ったところで、彼はエオシンの姉の婚約者であり、姉姫は美しい人でエオシンは彼女に敵わないのだ。だからエオシンの恋情は叶いようもない。
そうだ、恋をしたのだ。
エオシンは目の前の彼に、きっと出会った時から恋をしていた。けれど自分の感情に無頓着な彼女は気付かなかった。自覚した時には彼は手の届かない人だった。
感情を理性で完璧にコントロールできるのならば、こんな苦しみは味わわなくて済むのに、恋情は自覚してより大きくなっていく。
好きの気持ちが大きければ大きいほど、姉姫とサイアンのことが脳裏によみがえり、胸を貫く。
エオシンの心臓は八つ裂きもかくやあらんという痛みに苛まれ、痛みに涙が出そうになったが、彼の前で醜態を晒すのははばかられた。

「エオシン、あそこの木の上をリスが宿替えに走っている。口に子リスをくわえていますよ」
珍しいものにサイアンが瞳を輝かせて指を挿す。エオシンは努めて明るく振舞い、彼の指差すほうを一生懸命目で追った。
「本当!丸まってくわえられて、なんて愛らしい」
彼は気付かないでいてくれているだろうか。エオシンの胸にはぽっかり大きな風穴が開いてしまったようで、はしゃぐ自分の中身は虚しい空洞である。
サイアンが名を呼ぶたびに悲しくて、穴は広がっていった。彼が優しくしてくれるたびにつらくて、涙を堪えようとすると、目頭が痛くなった。

「もう、帰らないと」
とうとう耐え切れず、エオシンは東屋に戻って申し出た。侍女らに言われた昼をいくらか過ぎてしまっている。心なしか腹も空いたようだ。空腹と睡眠不足のときは思考が後ろ向きになりがちである。腹を満たして少し眠っても事実は変わらないが、現実逃避をしたかった。
もう彼の隣にいるのは心が疲弊しすぎてしまったのだ。
それなのにサイアンは真摯な眼差しで、エオシンの手を握り締める。
「今晩もここで会えますか」
熱のこもった瞳で訴えられては、磨耗した心も存分に揺らいでしまう。好きで好きで仕方がない、また会えれば天にも昇る気持ちになるに違いない。
けれどそれはきっとエオシンだけなのだろう。今彼がエオシンと同じ感情を持っていたとしても、今夜彼が正統なる婚約者に会えば、全てが過去の出来事に成り下がるのだ。
手を握ってくれる熱も、青の眼差しも、名を呼ぶ清涼な声も、全て明日にはエオシンの姉のものになってしまう。
悔しくて憎くて悲しいが、エオシンは阻止する術を持たない。自分が姉姫よりも勝ることなど何一つないのだ。
強いて言えば姉姫よりも先に出会ったことくらいであろうか。恋が早い者勝ちであるならば、どんなに良かったか。
しかし言い換えれば、姉姫よりも先に出会ったからこそ、一時のこととはいえサイアンと懇意になれたのだ。彼の気持ちはまだ姉姫には向かっていない、彼は姉姫に会っていないのだから。エオシンの恋が破れるのは明白だが、それは今ではない。
エオシンの中で段々と霧が晴れていくような気がして、ハッと我に返った。握られた手を握り返し、上背のある彼を見上げた。
「ええ、今晩もきっとお会いしましょう」
エオシンが出来る最高の笑顔にサイアンは頬を染め、わずかに身を固めた。
エオシンは高鳴る胸を抑えつつ、彼の腕に指を滑らせる。心の中で、さりげなくさりげなくと反芻するが、指先は震えてぎこちのなさは否めない。
「私、サイアン様にお伝えしたいことがあるのです。舞踏会が始まる前に、どうしてもお伝えしたいのです。きっときっと、いらして下さいますね」
さりげなく相手の体に触れ、上目遣いで頼みごとをすれば頷かない男はいない、とエオシンは百戦錬磨の母に教えられた。母はこのような手練手管を弄して、いまだ父王の正妻の座を守り抜いている。今までは必要に迫られることがなかっただけに、試す機会もなかったが、果たしてエオシンが実行したところで効果があるのかは甚だ不安だ。
しかし言い募るエオシンの思いが通じたのか、サイアンは頬を染めたまま陶然とした面持ちで少し身を屈めた。近づく彼の顔に、エオシンの心臓は一層早鐘を打つ。
「お約束しましょう。陽の落ちる前にここで待っています」
青い瞳が緩やかに細められ、形良く唇が弧を描いた。
もう一度会えるのが嬉しくて、エオシンは瞳を輝かせ紅潮した満面の笑顔で返した。
流れるように互いの指は腕をすり抜け、肌を這うようにサイアンは細い腰を捉え、髪を撫でるようにエオシンは項に手を回した。
今度は嫌がる素振りを見せないエオシンに後押しされたのか、彼は力を込めて彼女の体を己の腕に閉じ込めた。彼の腕の中、永遠に時が止まればいいのにと、恋愛小説に出てくるような月並みな言葉がエオシンの脳裏に浮かんでは消える。頬を寄せた彼の胸では自分のものか彼のものか区別の付かない鼓動が聞こえた。
エオシンは一度瞑目すると気力を振り絞ってサイアンの胸を押した。緩やかな解放に心のどこかで安堵する自分がいる。彼の腕の中は心地良いが、現実を見失いそうで怖い。好意を向けてくれるのも、優しくしてくれるのも、今夜までのことなのに、ついそれを忘れて溺れてしまいそうだ。事実は時間と共に間違いなくやってくるのに、このままだと現実を受け入れられなくなる。幸せな時間が続けば、それに縋って現実を直視しようとしなくなるだろう。
その前に気持ちにけりをつけて、諦めてしまわなければ。
エオシンは最後にサイアンを見上げて微笑むと踵を返した。彼は一瞬だけ口を開いたが、結局その唇から言葉が出ることはなかった。


サイアンと別れて、エオシンは帰路についた。来た道をとぼとぼと覇気のない足取りで歩いていく。今夕ふたたび会う約束をしたのは正直嬉しいが、自分の恋情を諦めるためのものだけにエオシンの心は複雑だ。
今まで自分は精神的に強い人間だと思っていたのだが、実際はそうではなかった。こんなにも心が脆くなる状況があるとは予想だにしなかったのだ。
しかし恋で身を滅ぼすのは馬鹿げている。馬鹿げていると思いたい。そうでなければ自分が傷ついてしまうのだ。心の思うまま彼に身も心も捧げて、恋に溺れるだけ溺れても、一時の幸せでしかない。すぐに心は移ろって、彼を失ったらエオシンは再起不能になるだろう。
あとの一生を泣き暮らすのはあまりにも惨めで実りがない。
深入りしない内にこの恋情を忘れてしまわなければ。しかし恋に気付いたばかりの心は浅ましくも彼を欲している。
もう少しだけ、あともう少し。
姉姫に彼の心が渡ってしまうまで、それまではもう少しだけ、彼の笑顔と優しさが私に向いていますように。エオシンは道々空を見上げては、頬に雫が伝わないよう何度も涙を堪えて祈った。しかし無常にも涙は次から次へとあふれそうになり、なかなか仰いだ顔を元に戻すことが出来ない。息をするたびに鼻水がぐずぐずとみっともなく音を立て、きっと今の自分の顔は見られたものではないだろう。
気丈に振る舞い、彼の前で醜態を晒さなくて、心底エオシンはホッとしている。まかり間違って彼に今のエオシンの顔を見られたら、百年の恋も一遍で冷めてしまうに違いないのだから。
思いっきり泣けるならどんなにか楽だろう。だが、これから顔を合わす姉姫に泣いていた顔を見られては余計な詮索を受けてしまう。そうなればエオシンに拒否権など無きが如し。芋づる式にサイアンと会っていたあれこれが掘り出され、完膚なきまでに懲らしめられるだろう。
姉姫の、スカーレットという人はとかく気位の高い人柄である。知らぬこととはいえ、実妹が自分の婚約者に横恋慕していたなどと知れば、たとえ政略的な婚姻で相手に恋情愛情などなかろうとも、自尊心を傷つけられたとして想像するだに恐ろしい報復を受けそうである。
思わず脳裏にその様を思い描きそうになって、エオシンは血の気が引く思いで身震いした。
しばらくは涙の乾くのを待って、姉姫の部屋へ帰らなければならないだろう。

エオシンは姉の滞在する館へ続く一本道の手前でおもむろに林の芝生に腰掛けた。溜息を吐きつつ、一本の木の幹を背もたれに膝を抱えれば、耳に聞こえるのは林間の静寂。けたたましく飛び立つ鳥の羽音でさえはるか遠くに聞こえるようで、樹木の葉が風に吹かれて共鳴する音などは小鳥のさえずりと重なっても騒音にはならない。涼やかな空気を吸い込み、閑静な音を耳に入れ、葉がわずかばかりに揺らめく景色を目に留めていると次第に激情は凪いでいくようだった。
木の葉の間から漏れる光に目を細めつつ、エオシンはサイアンのことを考える。
どうして気付かなかったのだろうか。
知らなかったとはいえ、昨夜の彼はあまりにも不審人物だった。
舞踏会が催されてる夜だというのに、上着も着ない白いシャツ姿で、けれど確実に舞踏会に出ていたのであろう装いに、どうして何の疑問も持たなかったのか。
それに、王太子の外見を全く知らぬというわけではなかった。朝な夕な、彼の人の話題が出るたびに学友の女子は頬を染めて語ったではないか。
『王太子殿下は濃紺の髪に空色の瞳、知的な面差しにすらりとした長身。彼の方はアズーリの女なら誰でも憧れる、一度でいいからお目通り叶いたい』
エオシンはその度に、彼の人の頭脳明晰を感心こそすれ、容姿や身分などに興味を持ったことがなかった。自分が目指すのは実家と関係なくアズーリで仕官することだったからだ。
自分の無頓着を今は呪いたい。
しかし、彼の人の外見を詳しく知ってたとしても、恋することを止められたのだろうか。それはきっと出来なかっただろうと、エオシンは無言でかぶりを振る。
なにも彼が王太子だから恋しなかったとか、容姿に惹かれたから恋をしたというわけではない。たしかに惹かれたのは青い瞳だが、彼の全てにエオシンの心は惹きつけられたのだ。出会いは偶然でも、恋をしたのは必然だ。彼が誰であってもいつ出会おうとも、きっとエオシンは彼に恋をした。
出会わなければよかったなどとは思いたくはない。けれど実ることはない、諦めなければならないことは悟っている。
だからこの恋心を終わらせるために、ひとたび彼に会おう。とびきり綺麗に着飾って、姉の美しさには到底敵わないが、彼の心を刹那の間でも捉えられるならば幸せなのだ。
願わくば彼の記憶に少しでも残れるように。

エオシンは両手を前に伸ばして立ち上がった。一度伸びをして何事もなかったかのように復路を歩き出す。涙はもうすっかり乾ききってはいるが、瞳は絶えず揺らめいていた。
幾分落ち着きは取り戻したが、ショックから立ち直れるほどには余裕がない。時間も精神力も、エオシンには足りないのだ。しかし表面を取り繕うだけの矜持は持ち合わせている。
何かの拍子に本心が雪崩れるかもしれないが、時間が彼女を急き立てる。
早く帰らなければ皆が心配をするだろう。
小道の空を覆う樹木の合間から館の壁が見え出し、ようやく戻ってきたことにエオシンは小さく息を吐き出した。急いて歩いていたのでわずかに息が上がっている。
館の前にエオシンの帰りを今か今かと待ち受ける姉の侍女らの姿が見えて、足を速めた。エオシンの姿を確認した途端、侍女らはわらわらと彼女の周りを囲み、微笑んで出迎えてくれた。
「スカーレット様がお待ちにございます」
姉姫の名を受けて、エオシンの肩がわずかに跳ねたが誰も気付かない。
侍女らの後ろについて歩く。今は姉の顔も見たくなかったがそうもいくまい。部屋の主であり、エオシンがアズーリの城にいる責任者なのだ。帰れば報告に顔を合わせるのは当然である。
平然と姉姫の前に立つことはできない。表情を取り繕おうとしても心が偽れなければ面はそれを映し出す。
しかし姉姫の前に出たエオシンの沈鬱な表情も、幼い頃から苛め抜かれた条件反射のようなものだと室内の誰もが疑わなかった。
ただ一人、部屋の主だけは妹の床を見つめる視線に、わずかばかり柳眉を上げた。




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