燦々と照りつける太陽を、木の葉の先に溜まった雫がはじいて光り輝き、または枝葉の重なり合った間をぬって、赤レンガの道にまだらの影を落とす。
陽が中天を指すにはまだ遠い、しかし朝霧はとうに晴れてしまった時刻であるが、人気のないせいか、空を覆う木々の多いせいか、辺りの空気は清涼として肺腑が清められるようだった。
頭上で小鳥たちが戯れて、声高に鳴いている。エオシンが目を向けると警戒してか、連れ立って飛び去ってしまった。
確かに昨日あるいた場所だというのに、昼と夜の印象が全く違う。印象といっても、昨夜は暗がりで、辺りの景色などほとんど見えていなかったのだが。
暗闇でしか憶えていない木々も、陽の下で見るとそれは清らかな美しさを持っていて、太陽の白、木の茶色、葉の緑と、鮮やかな世界を作り出していた。
道を外れれば先の見えない群生林であるが、下生えの芝生は綺麗に刈り込まれ、舗装されたレンガの道に、剪定された林の枝葉は、紛れもなく人の管理するものである。
王宮庭園の中核でなく、華やかな草木も植えられていない、何の変哲もない広大な敷地の一角であるのに、林の一本一本に手入れの行き届いているところを見ると、アズーリがどれほど豊かで富める国かが良く分かる。美しさというものは、金を掛けてこそ真の美となるのだ。
エオシンが自分の来た道を振り返ると、遠くで小鳥のさえずりが聞こえ、頬を膨らませたシマリスがレンガを横切った。
道沿いに進んでいくと、木々を連ねた林が終わり、一気に視界が開けて、庭園らしい生垣が見えてきた。
生垣とレンガの間に庭園灯をぶら下げる、長いポールが等間隔に並んでいるのだが、灯りが中空を漂っているように見せるためか、庭園灯の火屋やポールの色は黒に近い濃い色をしている。明るい中で見ても、天を刺す支柱の天辺にある火屋の中はようとして窺い知れない。背伸びをしてみても何の足しにもなりはしないが、エオシンは爪先立って火屋を見上げたが、やはり中身は見えぬと知ると、うな垂れて溜息を吐いた。
エオシンは諦めて、再び道沿いを歩き出す。行く手には、青空を穿つように建つ尖塔への道と、小さな噴水を囲むように植えられた垣根を巡る道と、林に沿ってずっと遠くへ続く道の三叉に分かれていた。
エオシンは立ち並ぶ庭園灯を未練がましく見つめたり、林の中を駆け回る小動物に気を取られたりして、あてどもなくふらふらと歩き出す。きらきらと目を刺すほどの陽光に、日傘を持って来ればよかったなどと片手でひさしを作りつつ、現在地から引き返すことの方が面倒なので、結局そのまま歩き続けるのだった。
一等有名な庭園の中央部ではないにしろ、整然と作り上げられた王宮の庭は、どれをとっても美しい。人の手により管理された幾何学の生垣や、噴水に鉢植え、そこかしこに置かれたオブジェも景観に均整と調和をもたらしている。
人の手により人の為に創られた文化の極みこそが、人間が美しいと賞賛する最たるものである。アズーリは大陸随一の文化国といわれるのだから、その極みがあるのも当然の事といえよう。
うっとりとその美しく整えられた庭園を眺めまわっていたエオシンだったが、既視感のある風景に足を止め、大木の狭間から白い建物が見えたのに気付くとその肩を強張らせた。
意図して進んできたわけではないのに、エオシンの足はしっかりと昨日の道を辿ってきたのだ。昨日は青白く光り、幻想的な風合いを醸し出していた東屋は、陽の光の下で見ると何の変哲もない、少し飾り彫りの施されたただの白い建物にしか見えない。
しかし昨夜の記憶は変化しようもなく鮮烈で、目にしたのが印象ががらりと変わった東屋であっても、脳裏に昨日の映像がフラッシュバックする引き金に充分なり得た。
エオシンは昨日、腕に抱かれた青年の端正な顔と青い瞳を思い出し、一気に顔が熱くなるのを感じた。しかしその熱を振り払うように、彼女は頭を勢いよく振る。
だが成果は虚しく、昨日の彼が頭から離れない。
そして気合を入れるために顔を両手で挟み込み、呻りながら頬を押しつぶした。
昨夜の彼はとても見目の良い男性であったが、いきなり抱きついてきた不埒者じゃないか。興味あることをたくさん話してくれて、親切な人だとエオシンの中でカテゴライズされた途端の蛮行である。それなのに、あの時あんなに胸がときめいたのはどうしてだろう。思索に耽っても終いの見えない堂々巡りで、エオシンの胸はもやもやするばかりだった。
心の中のものを払拭するために、エオシンは東屋の前で立ち止まると、気合の入った瞳で力強く白い建物を見上げた。そして平静を装って中へと続く階段を、昨夜と同じように上がっていったのだ。
しかし辿り着いた東屋の中に、誰の人影も見つけられずエオシンは酷く落胆した。
期待していたわけじゃないのに、ひどくがっかりした自分の負の感情に瞬時に戸惑いを覚え、エオシンは狼狽する。そうかと思えば、昨夜の腕の感触を思い出し、きゅんと高鳴る心臓と、飛び跳ねたくなる手足に、理性が追いつかない。
自分のことなのに不可解で、処理しきれない感情がエオシンの細い体に渦巻いている。
どうしたらこの迷路から脱出できるのだろう。助けてくれるのならば、誰でもいい。誰か助けてくれないだろうか。天を仰ごうとしたが、目先に見えたのは陽光を遮られた暗い東屋の天井だった。まるで自分の今の心情を見ているようで、更に鬱屈とした様子に見えた。
そんなものを、自虐でもない限り見続ける者はいないだろう。エオシンも見ていられなくて、腕を伸ばして視界を遮ったのだ。
そんな時だった。
「だ、大丈夫ですかっ」
不意に声を掛けられたのは。
昨夜と同じ、焦燥を滲ませた声音に驚き、顔を覆う両手を下ろして振り向くと、東屋の入り口に背の高い人影が立っていた。
逆光で誰だか分からないのだが、直感と予感がエオシンの心臓をフル回転させていた。
昨日の人だ、と思考の中であっても言葉として形に表すだけで、頭が火にかけたやかんのように、真っ赤に茹だって沸騰してしまいそうだ。もしかしたら脳天から湯気がもうもうと出ているかもしれない。
突然現れた人影は、肩を上下させて酷く息が荒く、最初に声をかけてきたきりなかなか第二声を出そうとはしなかった。けれどもエオシンは待っていた。厳密に言うと動けなかったのだ。乙女の直感が彼だと訴えているのに、臆病な心が人違いの末の落胆を恐れていた。
顔を覆っていた両手はいつしか胸を握り込み、逸る心臓を抑えつける。
時間はゆっくりと、けれど確実に過ぎていき、入り口に立つ人物の肩が動かなくなったことで、呼吸がようやく落ち着きを取り戻したことを知る。次いでゆっくりと近づきだした彼に、エオシンはふたたび心臓が急上昇しだして慌てふためいた。胸の上で握った拳を更に強く握り締め、徐々に露になる彼の輪郭をつぶさに見守った。
一歩近づく靴音と共に心は踊り、先ほどまでの鬱々とした暗い感情は、もはや忘却のかなたである。
薄暗い屋内で見ても、彼の瞳は青々と、まるで光でも放っているかのように存在感を誇示していた。夜の空に浮かぶ星を、そのままはめ込んでも、彼の瞳の魅力には敵うまい。そんなことを考えてしまうのは、自分が彼に一種特別な感情を抱いているせいだろうか。
さすがにここまで意識すれば、エオシンも自分が彼のことを特別視していると自覚するらしい。
火照る頬で見上げてみれば、うっすらと額に汗をかいて、彼がエオシンをじっと見つめていた。途端に一つ心臓が跳ねる。
「泣いてるのかと、思ったんですけど……」
自分の勘違いを恥じるように語尾は弱々しく、彼は後頭部を掻いて力なく笑った。
よくよくみれば、全力疾走した名残か、髪は所々に跳ねているし、何をそんなに急いで着たのか、上着の襟は内に巻き込んでいる。どことなく間抜けな出で立ちであるのに、エオシンには何よりも輝いて見えた。エオシンの前に立ち、彼女の視線が気になったのだろうか、取り繕うように彼は髪を手櫛で梳き、襟を直した後、照れ笑いを浮かべたがそれきり口を閉ざしてしまった。彼が口を開かなくなったので、エオシンも同様に沈黙してしまう。内心では何か喋らなくちゃ、と話題を一生懸命探しているのに、会話の糸口はいっかな見つからない。緊張に冷や汗が流れ始めた所で、エオシンの目の前におもむろに手が差し出された。
「庭でも、散歩しませんか?」
見上げた青い瞳は、緩く細められ、エオシンを見下ろしていた。彼の顔と手の平を交互に見てからエオシンは遠慮がちに指を差し出す。
「よろこんで」
遠慮がちに伸ばされた手を、彼が掬い上げた。指と指が触れ合った瞬間、エオシンの背筋に電流が走った。強い衝撃なのに痛みを伴わないそれは、エオシンに不可思議な感覚として残るに留まったが、青い瞳に魅せられて、確実に花開いている。
優雅に流れるエスコートに身を任せ、エオシンは東屋を出た。
何故だか来た時よりも世界が鮮やかに写って見える。緑に滴る朝露も、足元に生える小さな花びらさえも目に新しい。ミツバチの羽音にも気をとられ、かと思えば、傍らの低木の隙間に張った蜘蛛の巣が露を受けて輝くことに感動する。
そしてエオシンの細々とした視点に、一緒に足を止めてみてくれる隣の青年の存在が、ますます心を占領していくのだ。
「蜘蛛は綱渡りが上手なのですね」
小さな羽虫が蜘蛛の巣に引っかかっているのに気付いてエオシンが足を止めた。中央に陣取っていた蜘蛛が、獲物の存在に気付き、意気揚々と捕らえに行く様を彼女が見た感想だった。
隣の青年は同じように足を止め、エオシンの見ている先を覗き込み、ああと呟く。
「蜘蛛の巣は、縦糸と横糸で役割が違うんですよ。横糸は粘弾性を帯び、獲物をとらえるのに用いられ、反対に縦糸には粘着力がなく、蜘蛛は縦糸を伝い引っかかった獲物を取りに行くんです」
「そうなんですか」
エオシンは心底感心するように溜息をついた。隣の彼には自分の知識をひけらかしたりエオシンの無知を嘲るような素振りはなく、まるで学府の教授のように知らない物事をごく当たり前に説明してくれる。知識深く聡明な彼にも感心の溜息を吐きたくなる。
彼は虫の生態のみならず、庭園にまつわる逸話などもよく知っており、先人の残した詩の一節や、有名な物語の有名なくだりをまじえて、鳥の話や草花の名前の由来などを、興味深く話して聞かせてくれ、まさに有能な庭園ガイドであった。
その知識の豊富さには最高学府に身を置くエオシンですら舌を巻くほどだが、アズーリの宮廷に出仕するような貴公子ならばこの程度の博識は当然のレベルなのだろうか。もしかしたら彼も学府に籍を置いていたのかもしれない。
他人の知識の深さに嫉妬を覚えるのと同時に、単純に感嘆を覚える。しかし、胸の中の大半を占める甘い痛みは、羨望や妬みなどとは明らかに違い、彼が笑顔でエオシンを振り返るごとに全身を駆け抜けていく。笑い返しはするけども、うまく笑えているのかはエオシンには分からない。ただ笑顔の彼を見ていると、自然とこみ上げてくる心地良い胸の痛みが、表情にも出ているようだった。
青い空に漂う雲が、こんなにも眩く感じたことはない。木の葉が揺れる緑を、こんなにも鮮やかと思ったことはない。そよそよと緩く吹きぬける風すらも、その存在を鋭敏に感じ取る。
隣にある彼の、存在をとりまく全てのものが、特別に見えて仕方がない。いわんや当の彼は世界の何よりも特別なものである。
世間一般の標準よりも、随分と見目の良い男性ではある。肉付きはよくないが、しなやかな長身と、そよ風にも揺れる柔らかそうな癖のない髪や日焼けのしていない文官と思しき白い肌、バランスの良い顔立ちと柔和な表情。何よりも惹き付けられてやまないのは、どこまでも吸い込まれてしまいそうな空の青をかたどった美しい瞳だ。
けれどそれだけが理由ではない。確たる理由など、エオシンにも表現は出来ないが、けれどその容姿を失ったとしても補って余りある魅力を彼には感じる。
こんなにも気持ちを惹きつけられる男性に出会ったことは初めてだ。一緒にいればいるほどどんどん彼のへの心の割合が増していって、最後はどうなるんだろう。言い知れない不安すら感じてしまう。
「ありがとう」
庭の隅で土の手入れをしていた庭師に彼が話しかけ、何かを受け取る後姿をエオシンは首を傾げて、しかし興味深く眺めていた。振り返った彼は掌中のものを恭しくエオシンの前まで持ってくると、隠していた手をどけて中身を晒した。
彼の手に乗っていたものは、庭師に頼んで切ってもらったのであろう、庭園に咲く白い花弁のバラだった。混じり気のない純白のバラは美しく、思わずうっとりと息を漏らしてしまうほどで、おもむろに彼がエオシンの髪にその花を挿した時は、思わぬ出来事にきょとんと彼を凝視してしまった。
「あなたには白がよく似合います」
そんな言葉と彼の細められた瞳に、エオシンは心臓がパンクして死ぬかと思った。言うべき言葉が告げず、赤い顔で酸欠の魚のように口をパクパクと開閉するしかなかった。
「昨夜髪飾りを落としたでしょう?その代わりに」
昨夜髪に挿していた赤い花を、彼が拾い上げていたことを突如として思い出し、またしてもエオシンは赤面するはめになった。もうどう対応していいのか、完全に冷静さを欠いてしまった状態では気の利いた言葉も出てこない。
「あ……ああありがとうございます」
しどろもどろに礼を言い、しかし困惑顔でエオシンは彼を見上げた。
「なにかお返ししたいのですが、私は何も持っていないんです。申し訳ありません」
過度の高揚に瞳を潤ませながら、彼に向かって詫びると、破顔一笑された。彼は気分を害するどころか、柔和な笑顔を絶やさずエオシンの手を救い上げる。
「では私の名を呼んではもらえませんか。サイアン、と」
今まで名乗り合いもしなかったことに驚くが、出会ったのは突然で、きっかけが掴めぬままだったのだ。
サイアン、それが彼の名前。聞き覚えのあるような気がしたが、彼の名を知った喜びに、思考がそれ以上ついていかなかった。きっと青い色を示す名は、アズーリではよくある名前なのだろう。浮ついた意識では自分らしからぬ短絡的な考えに行き着いてしまうのに、エオシンには気付く余裕すら皆無である。
どこかで聞いたことのある名を心の中で反芻しながら、陶酔するように口にしようとした瞬間、底冷えする予感と共に思い出した。
酔いが瞬く間に醒めるそれは、地獄への覚醒だったのだ。
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