鳥の鳴き声が聞こえた。
大抵の鳥は夜目が利きにくいとされ、ほとんどが昼間、もしくは夕方の、陽光のある中で活動する。すなわち今は、太陽の光の射す時間帯であり、すくなくとも夜ではないとエオシンは判断した。
もっとも、彼女はいまだ、半覚醒の状態であり、前述のような理屈っぽいことを考えてはいるが、体は深くベッドに沈みこんだままである。
昨夜は悶々とする思考に悩まされ、なかなか寝付けなかったのだ。無意味にベッドの上で転々とし、しばし動きを止めては脳裏に青の瞳を描き、途端に勢いづいてシーツをもみくちゃにしたり、ベッドマットを力の限り叩きまくったことまでは憶えているのだが、思い返してみればその後の記憶がとんと見当たらない。
ということは、そこから眠り込んでしまったということで、なんだ、意外とあっさり眠りに落ちているじゃないか。エオシンはいまだスッキリしない頭をかき回しながら起き上がった。
天蓋の隙間から差し込む光が、ベッドのしわくちゃシーツに金の帯を落としている。
細隙の光が長く伸び行く先を、視線で辿っていくと、自分の隣にこんもりと盛り上がる寝具の山があるのにエオシンは気付いた。
光が歪曲して小高い山の稜線を描き、その大きさを表現しているのだが、どうもそれは人の大きさで、よくよく見ればシーツと掛け布の境目から、赤い赤い髪の毛が一房、白い寝具に波打っていた。
血の気が引くのはもう、条件反射といえるだろう。三つ子に刻み込まれた恐怖は、例え百を数えようとも体に染み付いているものだ。
一気に眠気が覚めたかと思うと、エオシンはベッドの上で飛び跳ねて、正座の姿勢で青ざめたまま、寝具の山をじっと見つめた。
エオシンの挙動が大きかったせいか、小高い山はもぞりとうごめいて、エオシンはそれに肩を震わせた。
握り締めた両拳が、じっとりと汗をかいているのに気付かないほど、エオシンは隣に寝ているであろうその人をじっと見つめていた。
まるで人食い虎と対峙している時のようだ。獣から目を逸らしたら、襲い掛かられる。
目を合わせているわけではないのだが、エオシンの記憶にある彼女の寝起きは、壊滅的に悪い。低血圧だか高血圧だかなんだか知らないが、彼女の寝起きの悪さをどのように理由付けたとて、それが治るわけでもなし、被る被害の甚大さが軽減するわけでもない。
エオシンは彼女がこれ以上起きないように、極力物音を立てずにじりじりと後退した。
目の前の猛獣が、動き出す前に、どこかへ避難しなくてはならない。
しかし寝台の縁に辿り着き、片足を床に下ろそうと気を逸らしたその一瞬。
むんず。
と寝間着の裾を掴まれて、エオシンは声なき声をあげた。寝台から下ろしかけた片足は、うまい具合に体のバランスを奪ってくれたが、寝間着の裾はまだしっかりと掴まれていた。行動に制限が掛かった状態となり、結果、エオシンは驚いた拍子に、頭から真っ逆さまに寝台から落ちた。
御影石が敷き詰められた床には、毛皮のマットが敷いてあるとはいえ、頭部に受ける衝撃は大の男でも悶絶するほどだろう。
しかし幼少の頃に鬼のような姉に鍛え抜かれた賜物か、幸いにしてエオシンはいわゆる石頭であった。
さすがにしばらくは、痛みに耐えるために苦悶していたが気絶するほどでもない。痛みが我慢できるほどに引くのにさほどの時間は掛からなかった。
自分の体勢を改めて見てみると、ベッドには片足だけを残して、体のほぼ八割がたは床に崩れ落ちている。人間の体は意外と柔らかいものだと、自分の体で感心してしまうほど、エオシンの五体は折り重なって毛皮のマットの上に落ちていた。
限界寸前まで曲がった首から、ベッドの上に取り残されたもう片方の脚が視界に写って、その脚がむき出しになっている。これはもしかすると、寝間着の下まで丸見えではないだろうか、しかし誰も見ていないのだから恥ずかしくもないのだが。
そんなことをエオシンが心の中で考えた時、声高に笑い声が響いた。
「ほーほほほ、ほーほほほ、パンツが丸見えになっていてよ、エオシン」
ひょっこりと顔を覗かせた姉姫は涙を目尻に滲ませて妹を見下していた。
しかし当のエオシンは、下着が丸見えのことも、限界まで曲がった体が悲鳴を上げていることも、姉の顔を見た一瞬で全てが吹き飛んでしまったのだ。代わりに支配するのは激しい動悸で、目まぐるしく体内を駆け巡る血流が、手に取るように感じられた。
それなのに緊張からか、目の前がチカチカといくつもの光が明滅しだし、血の気の引くような指先の凍る感覚さえも催した。相反するような体調の変化を幾度も繰り返して、エオシンはただ姉姫の笑い顔から真顔に変化していく様を傍観しているしかなかった。
「あら、固まった」
動かなくなった妹を、ひとしきり笑い終わったあとに姉姫は目を細めて見下ろした。かろうじてベッドに引っかかっている状態のエオシンの片足を、二三度つつき、彼女の反応がないことを確かめてから、軽々掴んで力いっぱい向こうへ投げ飛ばす。
さすがに体は一緒に投げ飛ばされはしなかったが、エオシンの頭を通り越し、更に向こうへ行こうとする片足の動力に引っ張られて、下半身が宙に浮いた。しかしそれは一瞬のことで、後ろ回りが失敗したかのように、両脚は揃って床を踏むことなく各々ばらばらに、毛足の長いマットの上に落ちた。とたんに変な方向に曲がっていたエオシンの首から、限界を超えた合図として、グキッという嫌な音が鳴り響き、悲しいかなエオシンはその音で我に返ったのだった。
「まあ、何かしらこの音。とっても痛そうだこと」
ほほほと笑って姉姫はキョロキョロ室内に視線を走らせ、首を押さえてうずくまるエオシンに「ねえ?」と同意を求める言葉を投げた後、彼女の返答も聞かずにベッドの縁から足を出した。
姉姫の足は、ベッドの下で悶えるエオシンを容赦なく踏みつけて、隣室へと続く扉を潜り抜けていった。
「エオシンったらお寝坊さんだこと、はやく起きないと食いはぐれてよ」
姉姫は去り際、高笑いとともにエオシンに声を掛けたが、動かなくなった彼女にその声は届かなかった。

エオシンが寝間着姿のまま寝室から出てきたのは、それから数時間たってからのことだった。
傾いだ首を押さえて、のろのろと扉を潜り抜けてきた彼女にたいして、姉姫は優雅に食後の茶を啜っていた。
「あら、今頃起きてきたの?もうお前の分は残っていなくてよ」
綺麗さっぱりと片付けられたテーブルに視線を落として、姉姫はエオシンに告げた。エオシンは情けない顔をして、頷くしかなかったが、まるで彼女の心境を代弁するかのように絶妙のタイミングで腹の虫が鳴った。
エオシンが顔を真っ赤にするのと同時に姉姫は口角を上げ、手元に置いてあった呼び鈴を振る。すると数人の侍女がやってきたかと思うと、目にも留まらぬ早業でエオシンを取り囲み、あれよあれよと言う間に身ぐるみ剥いで、ドレスを着付け始めた。
寝起きの頭で目まぐるしく動く侍女たちの手腕は、目眩を起こそうほどのものだったが、もともと慣れた行為であるためにエオシンはすぐさま落ち着きを取り戻し、されるがままになった。姿見の向こうに写る姉姫と視線が合い、一瞬身をすくめたエオシンだったが、ゆっくりと近づいてくる姉の手元には、彼女の気を引く絶好の餌が乗っている
「これ、わたくしの食べ残しだけれど、お食べなさいな。毒など入っていなくてよ」
侍女らに髪をくしけずられていたエオシンは、姉姫の差し出した特大の皿と姉姫の顔を交互に見遣った後、恐る恐る皿に手を伸ばし受け取った。
「ありがたく、頂戴いたします」
エオシンの手の平にずっしりと収まる白い皿には、ローストした七面鳥の丸焼きが皿からはみ出さんばかりに乗っていた。朝からこんなボリュームを食べる人間が、この世にそうはいないだろうが、スカーレットの胃の丈夫さは尋常ではなかった。しかも人間離れした健啖家で、朝食に豚の丸焼きを平らげられるほどである。もちろん肉類ばかり食している訳ではないが、毎日の食事は象を飼うより金が掛かる。なまじ雑食の人間であるから、味やバリエーションに煩いのだ。
血を分けた妹であるエオシンが、その類に漏れるはずもなく、香ばしい匂いに更なる食欲をそそられ、湯気の立つ七面鳥の片足をむんずと掴むと、顔をほころばせて腹あたりにかぶりついた。姉ほどの大食いではないが、朝なら七面鳥の丸焼きくらいで丁度いい。
髪をまとめる侍女たちから半ば怨念のような気迫が背後から漂ってくる。ドレスを汚すなというサインである。エオシンは肉汁が滴るのを注意しながら、租借する七面鳥の肉が暖かく、柔らかいことに思い至った。
「食べ残し」だというのなら、どうしてこんなにも「出来立て」のようなのか。冷めてもいないし、肉は油が固まっていてぼそぼそでもない。
答えを求めて皿の上から顔を上げれば、姉姫は紅茶を飲みつつ書類を捲っていて、エオシンの視線に気付くと紙束をテーブルの隅に押しやった。
「なあに?わたくしの可愛いエオシン。お間抜けな顔になっていてよ」
物珍しげな顔をするエオシンに、姉はニコリと笑う。他意はないのだろうが、すでにトラウマと化している姉の微笑に、エオシンは身震いをする思いだった。
「いえ、姉上が熱心に書面を読むところなど、今まで見たことがなかったものですから」
王族として文字の読み書きはできても、手紙以外で十行以上の文章を読んでいるところなど、初めて見たのだ。漠然と、姉姫は教養に乏しいと考えていたので、書類や挿絵のない本は、ページを開くだけで眠たくなる人種だと思い込んでいた。
「ああ、これ。アズーリ王太子の略歴と身辺調査記録。大臣方がわたくしに、何が何でも殿下を仕留めて下さいと、置いていったの。あちらも相当お困りのようね」
昨晩のことでも思い出しているのだろうか、スカーレットは誰に見せ付けるでもなく、大きな溜息をひとつ吐いた。
姉の言から察するに、王太子は結婚を厭うているようだ。それが絶世の美女と謳われるマゼンタ第一王女をもってしても変わりないよう。
男は皆、麗しい姉君のとりこ。彼女に惹かれぬ男性を、エオシンは今まで見たことがない。
マゼンタの第一王女をとりまく貴公子はもちろんのこと、エオシンと親しかった彼らも全て、姉君を一目見るなりすぐさま囚われた。そして誰もエオシンを省みるものはなかった。それほどまでに、スカーレットという王女は美しいのだ。
そのスカーレットをもってして婚姻を迫るのに、了承しないとは……。
アズーリの王太子という人は、変わった男性である。
「王太子殿下は如何様なお方なのですか。昨夜お会いになったのでしょう?」
エオシンが彼に興味を持ったのも無理からぬこと。姉姫の陰に生きてきた彼女にとって、姉に関心を示さない人間はことのほか特別なのだ。
しかし姉姫は、エオシンの質問に紙束を捲っていた手をピクリと震わせた。
「知らぬ」
簡潔な言葉のあと、厚い紙束を握りつぶす音が室内に響き、周りの温度が下がった。スカーレットの機嫌が色を変えたのをいち早く察した彼女の侍女たちは、エオシンの背後で一歩退くと、すでに仕度が整え終わったエオシンの手を掴んで踵を返し、一目散に逃げ出した。
戸惑うエオシンの瞳には、遠ざかる姉姫の姿。小さくなっていく姉君は、ゆらりと椅子から立ち上がると、握った拳を振り下ろし、サイドテーブルの天板を真っ二つにしてしまった。木製とはいえ硬質のテーブルが粉々に砕け散っていく音と光景を目の前で繰り広げられ、エオシンは幼い頃のトラウマゆえに、意識が段々と遠のいていく気がした。
しかし視界が扉に閉ざされた瞬間、夢から覚めるように我に返った。
周りを見回すと、姉姫の侍女たちが取り乱した様子もなく、スカートの裾を直している。背後の扉からはくぐもった音で、次から次へと破壊音が耳に届く。
きょときょととするエオシンに、姉姫付きの侍女が世間話でもするかのように手を振った。
「ご安心なさいませ。スカーレット様の癇癪は、しばらく放っておけばおさまりますゆえ」
「それよりも、あのテーブルを割られてしまうとは思いもよりませなんだ」
別の侍女が眉根を寄せて細く息を吐く。
「昨日すでに鬱憤は晴れたと思っていましたから、調度品を本来のものに戻していただいたのですよ。あのサイドテーブルは特に、シトロンの名工が設えたという名品とのこと。大臣殿に何と申し開きをすればよいのか……」
要領を得ないエオシンに侍女は説明をしてくれたが、話の最後は頭を抱えて悩んでいた。
「これでは何としてでも王太子殿下に娶っていただかなければ、マゼンタでは弁償のしようもありませぬ」
世界に二つとない一級品の調度を壊されたのだ、単に金銭で片付く問題ではない。かくなる弁償方法は、「お世継ぎを生みまいらせる王太子妃殿下」しかないだろう。
侍女らの中で、より強くスカーレットを嫁がせる意識が湧いた瞬間だ。
「しかしエオシン様、今しばしはスカーレット様の前で王太子殿下の話題は禁句でした」
今更言っても隣室で暴れまわる姉姫が急に大人しくなるわけではないが、侍女らはエオシンを咎めるように眉間に皺を寄せた。
「スカーレット様は王太子殿下と昨夜お会いするはずだったのですが、直前で逃げられたのです」
「少々強引な罠をはって、婚姻を結ぶ手筈でしたが、それを王太子殿下に悟られ、お厭いになられた殿下はスカーレット様を一目も見ることなくお逃げになりました」
だから姉君は、王太子殿下の人となりを、知らぬと切って捨てたのか。思い出すだけで癇癪を起こしてしまう昨夜の出来事は、初めて受けた屈辱だからか。
しかし、その事実にエオシンは酷く落胆した。かの人は、姉君を知った上で厭うているのではない。会えばきっと、気が変わるはずだ。姉君に会えば、きっと王太子も彼女のとりこになる。
そうなるのも時間の問題。
「知らないとはいえ、申し訳ないことをした。姉上には私から謝ろう」
気落ちして、エオシンは俯き加減に侍女らに謝罪し、踵を返すともと来た隣室のドアノブを握った。侍女たちはギョッとして、慌ててエオシンを取り押さえると、扉から引き離す。
「何をなさいます。今あの中へ入るのは、自殺行為でございますよ!」
ひとたび扉を開けてしまえば、無事で済まされないのはエオシンのみならず。自分たちにも危害が及ぶのを、侍女たちは心得ているのだ。青ざめながらエオシンを引き止める姿はいかにも切実で、扱い慣れているとはいえ、姉の脅威は変わりないと見える。
抵抗するでもないエオシンの体は、あれよあれよと扉から遠ざけられ、室内を対極に横切り、更に別室へ移動させられ、その部屋のテラスから庭に放り出された。
「エオシン様、ちょっとその辺を散歩しておいでなさいませ。その間にスカーレット様も落ち着かれていらっしゃるはずですから。いいですか、昼まで戻って来てはなりませんよ」
そう言って目の前で扉を閉められてしまっては、エオシンにはどうすることも出来ない。
試しにドアノブを取ってみたが、すでに鍵を掛けられたようでびくとも動かず、嵌め込まれたガラスがカタカタと音を鳴らせた。
エオシンは部屋に舞い戻ることを早々に諦め、放り出された庭へと視線を向けた。
燦々と照りつける太陽の光が眩しくて、咄嗟に目を細めてしまうほどで、片手をかざして空を見上げると、庭を散歩するのには誂え向きな快晴だった。

エオシンはテラスの階段から庭に降り立つと、辺りを見回した。昨夜抜け出した時とは出入り口が違うために、自分が今どこにいるのかよく分からない。
闇雲に建物沿いに歩いていくと、ほどなく昨日の出発点に辿り着いた。
エオシンは振り返って自分の来た道を確認する。侍女は昼まで戻ってくれるなと言ったのだ。昼までまだ3時間もあるから、ゆっくりとアズーリ王宮の庭園を散策すればいい。そのうちに姉姫の癇癪もおさまり、入室許可もでるだろうから。
エオシンは癇癪を起こした恐ろしい姉を思い出したのだが、それと同時に手の平に乗った暖かい皿をも思い出して、頬を緩めた。
あの七面鳥が姉の食べ残しであるはずがない。むしり取った肉からは、肉汁があふれ出ていたし、立ち上る湯気は鼻孔をくすぐるこうばしい香りを放っていた。
あれが出来立てでないというのなら、何をおいて出来立てと表現しよう。
すでに自分の食事を終えて時間のたっていた姉姫に、あの七面鳥は必要のないもの。きっとエオシンの為に作らせたのだと、自惚れてもいいのではないだろうか。
エオシンの脳裏に昨日、侍女が言った言葉が不意に思い出された。
『スカーレット殿下もエオシン様にお会いにならぬ間に、お優しくおなりですよ』
あの時は信じることが到底出来なかったが、今なら少し、信憑性もつくというものだ。
エオシンは館の出入り口から、足取り軽く一歩踏み出した。




<<前 || 表紙 || 次>>