昨晩は結局、避難場所である大聖堂の書庫へ辿り着くことなく、衛兵に見つかりその後近衛兵によって大臣たちの前に引き渡された。
雲上人である王太子に、束縛などの不敬は誰も働かなかったが、無事に大臣の下へ護送するためにはとんだ窮屈な思いを強いられる羽目になった。
サイアンは追われる身とはいえ、罪人ではない。そのことは近衛兵たちも承知である。しかし今まで優等生で過ごしてきたサイアンには逃亡癖というものがなく、逃げた王子を捕まえるなんて任務に、近衛兵たちはついたことがなかった。
責任感の強い王太子が、舞踏会(≒見合い)を脱走しただなんて、気でも触れたのかと思われたのだろうか、捕まったサイアンは腫れ物に触るように兵たちに扱われた。その際たるものは、八方を鎧で固めたむさ苦しいつわものどもの檻である。
サイアンは近衛兵に周りを囲まれて、大臣たちのいる館までの道のりを移動させられた。その息苦しさといったら、体が鎧の鉄板にこすりそうで、その中から遠慮なく香る汗臭さは、呼吸をするたびに肺臓が壊疽するかと思うほどだった。
そのときのことを考えると、サイアンは再び悪心に苛まれて、頭を深く、組んだ腕の中へ沈み込ませた。
移動すること30分。男の体臭にまみれて、半ば意識が飛びかけようとしているところへ、やっと目的地に到着か、近衛兵にサイアンは解放された。今なら人海戦術の国の空気だって美味いに違いない。サイアンは近衛たちの隙間を掻き分け転げ出て、息を大きく吸い込み、また吐き出した。呼吸が整った頃にようやく顔を上げると、そこには居並んだ大臣たちが各々の表情でサイアンを見つめていたのだ。
サイアンは何事かとギョッとしたのだが、一番年嵩の大臣が覚束ない足取りで、しかしながら驚異的なスピードでサイアンに突進してくると、それを合図に他の大臣たちもサイアンに向かって猛進してきた。怯えるなという方が無理がある。サイアンは当然ながらひるんで後ずさりをしたが、憐れ背中には近衛の鎧。進退窮まった彼は、覚悟を決して強く目を閉じた。
「おおおおおおお、でぇんくぁああああああ!!!!」
「ぎゃーーー!」
しかしカサカサのしなびた手に腕をとられて、サイアンは思わず柄にもない叫びを上げてしまった。しばらくたっても何も起こらなかったので、恐る恐る薄目を開けて見下ろすと、しわしわ翁の大臣が鼻水をすすりつつ、ぼろぼろ涙をこぼしてサイアンにすがり付いていた。
いつも沈着冷静な王太子の叫び声としては、いささか不恰好であり、サイアンは遅れてやってきた羞恥に頬を染めた。
しかし事態はそれだけでは終わらなかった。サイアンに飛びついたのは一人ではなく、彼を皮切りに、遅れて猛進していた大臣たちが次々に辿り着いたのだ。
「殿下ー!」「ご無事でしたかーー!!」「でんかー!」
「王子ー!」「お探ししましたあああ!!!」「デンカー!!」
「心配しましたぞおおお!!」「殿下の困った子ちゃん!!」「もう離しませぬ!」
残り9人の大臣らが揃いも揃って飛びついてくるものだから、サイアンは後ろへなぎ倒されかけてよろめいたが、臍下丹田に力を込めて、グッと脚を踏ん張った。男は足腰が命だ。
「はー、なー、せ!!!」
加齢臭が鼻をついて、サイアンは涙目になりながら手足に渾身の力を込めて振り回した。
本人たちはまだまだ現役と言い張るが、男の盛りを過ぎた老人たちの腕力ではどれだけ必死にしがみつこうと若者の力には敵わなかったようで、老体はぽろぽろとサイアンの体から、ブドウが房から千切れ落ちるように、こぼれ落ちた。
青筋を立て、荒い息を吐き出したまま俯いて微動だにしない王太子の足元には、国を支える重鎮たちの屍・・・もとい、倒れ伏した痛々しい姿。居並ぶ近衛兵は土気色の表情で、未来の名君と名高い王太子に、畏怖と畏敬を込めて賞賛の手を叩いた。

大臣たちは各々、腕を震わせ、弱々しく上体を起こしているのだが、サイアンは冷え冷えとした瞳で見下ろし、言葉を放った。
「説明してもらおうか」
途端に大臣たちの動きは、一様に固まり、微動だにしない。まるで氷点下50℃の極寒の地にいるように青ざめて、肩が細かく震えているが、彼らの心理状態などサイアンには慮る義務などないのだ。
大臣たちは王太子の怒りを認識して、言い訳しようと口を動かすが、見上げたかの人は微笑をたたえているものの、瞳の奥は一向に笑っていない。またもや大臣たちは蛇に睨まれた蛙となった。
そんな彼らを傍で傍観する近衛たちは、事の成り行きをハラハラと見守る。
脱走したサイアンのほうが上位の立場であるのは、近衛からしてみれば首を傾げる事態だが、彼らはサイアンが逃亡に至るまでの経緯を知らないのでさもありなん。
王太子を慈しみ養う大臣たちは、いつも麗しの殿下に良かれと思って大迷惑を引き起こす。その度に王太子の叱責が飛ぶが、今回も同様の結果であろうと近衛たちは想像し、王太子に同情した。

「どうして私が姫君と一つ部屋に押し込められなければならない?」
サイアンが瞳を眇めると、大臣たちは大きく肩を跳ねさせた。いつの間にかサイアンを囲んで正座をしている。
首をうな垂れ沈黙を続ける老人たちに、サイアンも沈黙をもって返答を待った。
「お……」
やがて沈黙を割って聞こえてきたのは、小刻みに震えるしゃがれた声だった。
声のするほうに視線を向ければ、両脇から背中をさすられ、両目いっぱいに涙を湛えている老人が顔を上げた。
「恐ろしゅうございました!!」
そう一言叫ぶと、老人はさめざめと泣き伏し、両脇の大臣たちから手厚い慰めを受けていた。
サイアンも脳裏に、空中を飛び散り夕陽を浴びて輝くガラス片を思い出し、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。そしておいおいと泣く老人の前でしゃがみ、思わず同情を示して肩を叩いたのだ。彼はあの時、部屋の中で王女の暴挙を被った一人なのだろう。
王太子の同意を得て安心したのか、老人は更に洪水のような涙を流し、しばらく使い物にならなかった。
少し優しい面を見せたサイアンだが、追求の手を緩めたわけではない。再び立ち上がると周りを見渡し、更に返答を待った。
またしばらくすると、さめざめ泣き伏す老人の隣から、意を決したように声が上がった。
「殿下が、なかなかお妃を娶ってくださらぬからですぞ!」
その一言がサイアンには弱かった。彼が「しなければならないこと」と分かっていて、今まで避けて通ってきたのだから。
ぐっと反論の言葉を咄嗟に飲み込んでしまったのを大臣たちは見逃さず、ここぞとばかりに勢いづいてきたのだから始末に負えない。
「我らは皆、王家とこの国の繁栄を願っておりまする。しかしながら今上陛下は御身脆弱なりて、王太子殿下に譲位するのも時間の問題。さすれば殿下の継嗣となられる御子を望むのは、もはや我ら臣下ばかりの話ではございませぬ」
「姫君のご実家のマゼンタはこれより先、わが国にとっても懇意にしておかなければならぬ国です」
「私どもが連日顔をつき合わせ、ようよう選び抜きました姫君ですぞ」
昨夜思い浮かべた王女の名は思い違いではなかった。サイアンは名前のみを聞き及ぶ、絶世の美姫を思い出した。赤の宝玉を多く産出し、今現在アズーリで研究中の鉱石が深く眠る土壌の国。現段階では多様な用途を模索中であるが、内在するエネルギーは未知数であり、今後アズーリを支える新しいエネルギー源になり得るものである。それを保持する国の姫君を王太子の妃に据えるのは、賢明な選択である。
「それだけではございません。マゼンタの王女殿下は名高き麗人、王太子殿下もお噂はお聞き及びでございましょう」
サイアンが神妙な顔で控えていることに勇気付けられたのか、大臣たちは徐々に勢いを取り戻し、王女の売り出しに乗り出してきたらしい。
マゼンタの王女は代々、美しいことで有名であるが、その中でも今上の第一王女は、訪れた吟遊詩人が赤の国の宝玉・大陸の紅玉と謳うほどであるとか。比類なき佳人とのことだが、すでに結婚適齢期は数年前に迎えていたはず。いまだ独身であるのは何か思惑があるのか、はたまた王女に問題があるのか、以前から勘繰ってはいたのだが、昨夜の出来事で後者であることが知れた。
例え美人といえども、老人が恐れおののいて泣き伏すほどの姫君は遠慮したいものだ。
しかし大臣たちの弁舌は止まらない。
「加えて、マゼンタの王族は多産系で、中でも王女の母君であられるマゼンタ王后の一族は安産型体形の女性が多く、王后は立太子なされた一の王子を筆頭に9人の王子王女をお生みです。王女殿下も、さぞ健やかな御子を母君以上に生んでくださるやもしれませぬ。」
どこから調べてきたんだという情報を、得意満面で語る大臣たちに、段々と嫌気が差してきて、サイアンは話を半分ほど聞き流していった。
そして代わりに彼の思考を占めだすのは、手の平に収まる赤い花の持ち主。
縁談の相手が彼女であれば……と考えて、自分の思考に激しく首を振った。ありえない。
不可能な現実を拒む、自分の我儘さにも、彼女に対する執着の片鱗も、サイアンには戸惑いの対象だった。
途端に口から漏れるのは深い溜息で、それを聞きとがめた大臣たちが揃って眉間に皺を寄せた。
「聞いておるのですか、殿下!」
「ああ、うん」
全く聞いちゃいない。いつしか心ここにあらずな様子になってしまった王太子に、大臣たちは訝しげに顔を見合わせた。しかし王太子はそれから、何かに取り憑かれでもしたかのように、ぼんやり腑抜けになってしまった。大臣たちがいくら彼に訴えようとも、煩わしげに溜息を一つされるだけで、いつものような打てば響く返答は返ってこなかった。
大臣たちは自分たちがあまりにも執拗なので、王太子がとうとう彼らを邪険に扱い出したのだと、ショックを受けてさめざめ泣き出したが、そんな彼らの陰鬱な泣き声もサイアンは上の空で聞いてはいなかった。


ふわふわと漂う気分は高揚していて、けれど一瞬で地に落ちるように不安になったりする。
手中で弄んでいた赤い花は、瞬く間に萎れてしまって、おろおろとうろたえるサイアンを見かねた侍女らが瑠璃の一輪挿しを差し出し、今はそれに鎮座している。
「美しいお花ですね」
花弁が幾重にも重なる豪奢な花を、侍女がそう褒めると、サイアンは頬を緩めて一瞬だけほんのり赤らんだ。すぐに顔を背け、窓の外へ視線を転じると、侍女には彼の顔色はついぞ分からなかった。
サイアンは窓際に椅子を引っ張り出すと、背もたれを抱え込むように腕を乗せ、一心に窓の外を眺め始めた。
快晴の空、眼下に広がるのは誰もが美しいと賛辞するアズーリの庭園。
緑の生垣に区切られ、褐色のレンガで舗装された道。色とりどりの花々は季節によってそこかしこで人の目を楽しませる。
すっきりと手入れされた林の向こうに、昨晩は幻想的であった青白い東屋が、今は何の変哲もない白の建物として建っていた。
そのまわりをポツリポツリと人がまばらに歩いていく。庭園の花にも負けない優雅ないでたちの、うら若い貴婦人が、蝶のようにひらひらと緑の中を舞っている。
昨晩の舞踏会で交流を深めたのだろうか、どこかの男女がバラの咲き乱れるアーチをくぐり抜け、楽しそうに笑いあって戯れている。
舞踏会に出席した賓客たちはどれもみな疲れ知らずで、陽の高い内からやれアズーリの宮殿を散策したり城下を観光したりで大忙しである。
そんな人々を目で追っているのかいないのか、定まらない視線は見下ろす庭内を彷徨って、高頻度に白い東屋へ戻る。
「はあ……」
サイアンはもう何度目か数えるのも忘れてしまった溜息を吐き出して、チラリと脇に置いた一輪挿しに目をやった。
あれはうたかたの夢ではなかったか。思考の狭間に時々、呟く声が聞こえるのだ。
彼女が落としていった赤い花があるというのに、彼女を抱き締めた感触がこの腕に残っているのに、それすらもサイアンの焦がれ続ける願望の見せた、淡く儚い夢想であったのだと、片隅で誰かが囁く。
こんなにも体を支配する強い感情が、自分の中にあったのかと、サイアンは驚くと同時に、恐れも抱く。この不確定で不安定な心の動きに、サイアンは一抹の嫌悪感も抱かずにはおれない。彼女と対峙していた時の高揚感は、心地良く、高鳴る心臓は一種の快感をも思わせた。けれど今はどうだろう、一心不乱にあの場所を眺めては、過ぎ行く人影に過剰反応し、彼女でないと知れると世界のどん底に落ちる気分と、途端に闇色に写る景色。
これが自分の憧れ続けたものなのか。こんな激しい感情の起伏が、求めたものには伴うのか。サイアンは自らの問いに、答えが出せないでいた。
昨夜の出来事が、あまりにも絵空事のようで、彼にその胸の内を決定付けさせるには、現実味を欠いていたからだ。
夢であれば、全てをなかったことに出来る。彼女がうつつの者でなければ、追い求めて手に入れるのは不可能なこと。この感情もあってないようなもの。
だからいっそ、夢であれば、と願わずにはおれない己がいるのもまた事実。
「はあ……」
またこぼれる溜息に、気分が一つ下降した。
そして庭園の片隅の白亜館へ無意識に視線を転ずる。幾度目かの人影に、ほのかな期待を抱いて、すぐにそれを打ち消した。ひたすら彼女を待つことに、彼の心は疲弊しきって、望むことへ臆病になっていた。
しかし彼の瞳に写ったのは、ひらひらと舞う少女のドレスだった。きょろきょろと辺りに視線を移しては、ひるがえる赤毛がふんわりとなびいた。
サイアンのいる所からでは瞳の色まで判別は出来ない。けれど間違えようがなかった。
いくど脳裏に描いたことか、その肌の色も唇も、指の一本一本まで、何度も思い返しては、熱い溜息を吐かせた彼女の姿を。

けたたましい音が室内に鳴り響いた。控えていた侍女らが音のしたほうへ視線を向けると、今まで窓際にうずくまっていた自分たちの主が、同じ場所で仁王立ちしていたのだ。足元には音の発生源と思われる、主が座っていた椅子がひとつ転がっていた。
サイアンの突然の奇行に、侍女たちは目を丸くして成り行きを見守っていたが、振り返った彼の表情があまりにも思いつめたものであったので、彼女らはサイアンが腹でも壊したかと心配したのだった。
しかしサイアンは侍女らの思惑など知る由もなく、部屋着のまま脇に置かれていたフロックコートを引っ掴むと、乱暴に扉を開けて出て行ってしまった。
慌てて出て行ったサイアンに、侍女たちは、自分たちの考えを裏付けるように、彼は手水に出掛けたのだと信じて疑わない。
それほど彼の様子は、何かに必死であったとか。




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