荒く息を吐き出して、エオシンは後ろを振り返った。形振りかまわず逃げてきたので、舗装された道を大きく逸れて芝生の上に立っていた。しっとりと水気を含んだ芝が足の裏からパンプス越しに感じられ、その冷たさが今しがた走った足には心地良かった。

あたりの暗闇に紛れて眺めた東屋は闇の中に浮かぶ青玉、先ほどの青年の瞳を思い起こさせる清らかな水の流れのような青色だ。
青年の瞳を思い出し、エオシンの胸は大きく波打った。
心臓の音が辺りに漏れ聞こえてしまいそうで、服の上から胸元をギュッと握り締めるのだが、その動きは大人しくなりそうもない。一つ溜息を吐き出して瞳を伏せた。
生まれて初めて男の人に抱き付かれてしまった。幼い頃は兄や弟と戯れて抱き合ったりはしたけれど、それでもエオシンがうんと小さな頃の話だ。十の歳を数える頃には男女別々に育てられ、久しく男性とは触れ合いがなかった。もちろんエオシンが通う学府でも男性はいるのだが、毎日が課題と試験の繰り返しで、それらをこなすのに学生たちは必死なのだ。クリアできなければ即退学の状況で、皆で顔を突き合わせて一緒に課題をこなすことは多々ある。その中で芽生えるのはもっぱら強い連帯感と仲間意識で、恋愛感情に繋がる男女の意識は最も遠い所にあるものなのだ。
だから、提出した論文が高評価を得た時も、共同研究した学友(男)と感極まって抱擁を交わしたこともあるが、それは仲間と交わした汗と涙の熱き抱擁なので、今回の胸がドキドキするような抱擁とは同列に扱われていない。
ちなみに学友に抱く感情は連帯感と仲間意識だと感じているのはエオシンだけで、エオシンをとりまく男性諸君は彼女が「最も遠い所にあるもの」を身近に感じているようだ。
エオシンの容姿は、絶世の美女と謳われる姉姫には劣るものの、美しい女性が数多く生まれるマゼンタで知らず知らずのうちに磨かれた一級品であり、マゼンタの高レベルを知らぬ学府の人間には鮮烈過ぎた。
彼女は知らないことだが、学府に入学したその日に男子学生の間で共同戦線が敷かれ、抜け駆け厳禁・お触り禁止などの暗黙のルールが作られた。しかしながら近い未来、彼らのひたむきな努力と誠意は憐れにも最悪の形で終わりを告げることとなるが、それはまた別の話。

東屋の光が揺らめいた。エオシンが気付くよりも早く、出口に人影が立つ。
遠目に確認した細身の長身は彼に違いない。
煌々とした光の中に浮かび上がるその人影は、濃紺の短髪を揺らして階段を降りていた。
彼の姿を見ていると何故か胸がざわめく。初めて顔を合わせた時の瞳の印象や、エオシンの質問攻撃に目を細めて答えてくれた優しげな表情、一人で何かに納得して頷いた後に豹変した烈火の激情。どれもこれもがエオシンの心に揺さぶりをかけて、平静でいられなくする。
何なのだろう、この胸騒ぎに似た落ち着きのなさは。
居心地の悪い感覚なのに、彼から目を離せない。
それはきっと彼の美しい瞳の色のせいだ、とエオシンは必死に自分の感情と折り合いを付けたがった。

彼の瞳は美しい。それはエオシンが生まれて初めて青い色に特別な関心を抱いた瞬間だった。
エオシンは赤い国と称されるマゼンタで生まれ育ったために、青い色には特別親しみを持たない。昔から赤い色のほうが好きだし、美しいと思うものも祖国を思わせる赤い色だ。
青い国と称されるアズーリに来てからは、以前ほど身の回りに赤味がなくなり心惹かれることが少なくなった。青い色はどこか涼しげで、寒々しい。アズーリの国は嫌いではないが、青を尊重する国風には馴染めなかった。
けれど今はその色を思い出すと何故だか落ち着かない。初めて美しいと思った青は、水の流れのような清らかさと快晴の空を思わせる果て無き色で、どんな紅玉にも勝るほどエオシンの心を惹きつけるのだ。
不意に涙が出そうになり、胸が疼くのを抑えられない。
理由を模索すれども未知なる感覚に不安を覚えるエオシンには思うように思考が巡らない。
遠方で件の人が身を屈めて何かを拾い上げた。それを視認したエオシンは、目を見開いて咄嗟に自分の頭部へ手をやった。そこにあるべきものがなくなっているのに、唇を震わせて青ざめた。
無くしてはいけないものではない。姉が己の荷と一緒に積んできた、祖国の一等美しい観賞用の花である。おおかた諸外国へ輸出するために姉に売り込んで来いと父王か家臣が持たせたのだろう。
門外不出のものならば、エオシンの頭を飾った所で誰かが忠告をするであろうし、そもそも国外に持ち出しはすまい。
ついさっきまでエオシンの髪を飾っていた赤い花に、あの彼が触れている。
まるで自分が触れられているような錯覚すら感じて、心臓を引き絞られるような緊張が全身を走り抜けた。極度の緊張に、自然と血の気が引いて唇が小刻みに震えたのだ。
それ以上は見ていられなくて、エオシンは踵を返すと自分が来た道を真っ直ぐに駆けて行った。
もし彼女がその後の彼の行動を見ていたのならば、心臓発作で倒れていたかもしれない。だがそれは現実に起こらなかったことなので誰にも分からない。


エオシンは必死に走った。走っているから心臓がドキドキするのか、心臓がドキドキするからこんなにも息が荒いのか。汗が出るのは走っているからか、こんなに走りにくいのは高いヒールのパンプスだからか。
色んなことを考えてはいたが、常に思い描いていたのは彼のことだった。彼の腕の中に囚われた時のことを思い出すと、全身が熱くなるのと同時に足が軽やかになった。きっと今の時速はいつもよりも速いに違いない。
だって出発地点の迎賓館に、もう到着してしまった。館の扉をくぐる時、エオシンはもう一度来た道を振り返った。東屋のある方角に視線を向けたが、いくつかの角を曲がって高木の並ぶ垣根をまわって戻ってきたので、それらに遮られた東屋は遠目にも写らなかった。
それはいっそのこと諦めがついて良かったのだが、エオシンの口からは溜息が漏れるばかりである。



部屋に帰るとすでに姉姫がおり、憤懣やるかたなくテーブルに拳を打ちつけ、繊細な細工が施された厚みのある天板は木目に沿ってひびが入っていた。規則的に姉姫が振り下ろす拳の音と同じく、木材が壊滅していく音が室内に鳴り響いていたが、エオシンはチラリと一瞥しただけで窓際にとぼとぼと歩いて行った。昔から姉は気に入らないことがあると物に当たるので、有能な侍女たちはスカーレットが機嫌を悪くすると、値の張る家具類を避難させていた。だから今、粉々になりつつあるテーブルも一見高価そうに見えるが、アズーリにとっては一つや二つ破壊されたところで懐が痛まないのだろう。
姉姫のほうもエオシンのことなど頓着せずに、自分の怒りを治めるのに夢中のようだ。侍女は手馴れたもので、適度な相槌を絶妙なタイミングで入れながら姉姫の壊したテーブルの残骸を片付けていく。
後ろでは姉姫が天板を真っ二つにしてテーブルが沈んだ音がした。しかしエオシンの眺める窓の向こう、林の間にぼんやりと青い発光を見つけたのが同時であったためにエオシンは窓ガラスにしがみつき、後ろの惨状には全く気がつかなかった。気がついたところでどうというわけでもないのだが。
エオシンの立っているところでは木々の隙間から光が見えるだけで、大本の建物本体が見えない。背伸びをしたり体をずらしたりした所でそれは変わらず、夢中で隣室に移っても窓から見える景色はさほど変わらなかった。
がっかりと首をうな垂れて溜息をまた一つ吐き出した。
ぼんやりと光る東屋に居た人に、自分でも知らずに思いを馳せてしまう。未練がましく彼に通じるわずかのものでも見ていたい、触れていたい。
そんな思いを何と呼ぶのか、まだ彼女は知らない。




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